なぜ黒髪が「みじめ」に見えるのか――川端康成『雪国』に見る色彩と感情

なぜ黒髪が「みじめ」に見えるのか――川端康成『雪国』に見る色彩と感情

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川端康成『雪国』を読んでいて、気になる一文があった。

駒子の髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の侘しさのために反ってみじめに見えた。(新潮文庫版、78頁)

一読すると、それほど難しい文章ではない。

しかし考えてみると、かなり不思議なことを言っている。

なぜなら、髪が黒いことと「みじめ」であることの間には、本来なんの必然的な関係もないからである。

「黒い」ではなく「黒過ぎる」


まず気になったのが、

「髪の黒過ぎるのが」

という表現である。

当時の日本人女性の黒髪そのものは、もちろん珍しいものではない。

ところが川端は「黒い」とは書かない。

「黒過ぎる」と書く。

黒という一つの色のなかに濃淡を見出し、その黒さがある境界を越えているものとして捉えている。

ここには川端康成の鋭い色彩感覚が表れているように思う。

しかし、さらに不思議なのは、その「黒過ぎる」髪が美しさの強調へ向かわないことである。

普通なら、

「艶やかな黒髪」

「吸い込まれるような黒髪」

など、黒さを女性の美しさへ結びつけることもできる。

ところが川端がたどり着く言葉は、

「みじめ」

なのである。

美しさを強調するための比喩ではない


小説の比喩というと、対象の美しさを強調するために使われるものを想像しやすい。

しかし川端の感性は、必ずしもその方向へ向かわない。

『雪国』では女性の唇を蛭に重ねるような、通常の美的表現から少し外れた比喩も現れる。

この黒髪の描写も同じではないだろうか。

駒子の黒髪を見て、その美しさを称賛するのではない。

黒さを見つめているうちに、それがなぜか「みじめ」に見えてくる。

美しい対象を美しい言葉で飾るのではなく、対象から自分のなかに生じた奇妙な感覚を、そのまま言葉にしようとしている。

そこに川端の独特さがあるように思う。

黒髪だけを見ているのではない


もっとも、黒髪そのものが「みじめ」なのではない。

文章には重要な条件が加えられている。

日陰の山峡の侘しさのために

である。

つまり、駒子の髪だけを切り離して見ているのではない。

そこには日陰になった山峡がある。

山峡には「侘しさ」がある。

そして、その風景の中に駒子の黒過ぎる髪が置かれる。

すると黒髪までが「みじめ」に見えてくる。

整理すると、

黒髪の黒さ  
→ 日陰の山峡  
→ 侘しさ  
→ みじめ

という感覚の連鎖が起きている。

人物と背景がそれぞれ独立して存在しているのではない。

風景が人物の見え方を変えてしまう。

「みじめ」は誰の感情なのか


ここでもう一つ考えたい。

そもそも髪そのものに「みじめ」という感情はない。

山峡にもない。

だとすれば、「みじめ」という言葉はどこから出てきたのだろう。

当然そこには、見る側である島村の知覚が介在している。

私たちにも似た経験がある。

気分が沈んでいる日に外へ出ると、いつもと同じ曇り空が妙に物悲しく見える。

古びた建物や、道端に落ちている葉まで寂しく感じられることがある。

もちろん、世界そのものが変化したわけではない。

自分の心理を通過することで、世界の見え方が変わっている。

駒子の黒髪が「みじめ」に見えるのも、それに近い現象として読むことができるのではないだろうか。

ただし、ここから直ちに、

「島村自身がみじめだった」

と断定するのは少し危険だと思う。

少なくとも言えるのは、客観的には「みじめ」であるはずのない黒髪がそう見えている以上、島村の内面を通過した世界が描かれているということだろう。

「反って」という一語


そして私は、

「反って」

という言葉も重要だと思う。

髪が「黒過ぎる」。

それほど濃い黒なら、本来は駒子の美しさを際立たせてもおかしくない。

ところが、日陰の山峡という環境のなかでは、その黒さが美しさへ向かわない。

反って、みじめに見える。

黒さが増せば美しさも増すという単純な方向ではなく、あるところで意味が反転する。

美しさの強調になりそうなものが、周囲の風景との関係によって「みじめ」へ転じるのである。

私はこの反転に川端らしい感性を感じた。

川端康成にとって「色」は感情への入口なのか


以前、『雪国』の次の文章について考えた。

月はまるで青い氷の中の刃のように澄み出ていた。(74頁)

ここでは「青」という視覚的な情報が、「氷」の冷たさや「刃」の鋭さへつながっている。

つまり、

色彩 → 触覚

という変換が起きている。

今回の黒髪では、

色彩 → 感情

への変換が起きているように思う。

黒は単なる色ではない。

日陰の山峡と重なることで侘しさを帯び、最後には「みじめ」という感情へ到達する。

そう考えると、川端康成の「色彩感覚が豊かだ」という評価の意味も少し変わってくる。

色をたくさん知っているとか、色を細かく描き分けられるというだけではない。

色を入口として、触覚や身体感覚、さらには感情にまで移動できる。

そこに川端の文章の強さがあるのではないだろうか。

風景は心の外側にあるとは限らない


「駒子の髪が黒い」というだけなら、これは客観的な描写に近い。

しかし、

「黒過ぎる」

となった瞬間、観察者の知覚が入り込む。

さらに、

「みじめに見えた」

となれば、そこには明らかに感情的な評価が含まれる。

『雪国』の風景描写を読んでいると、人物の外側に客観的な世界があり、それを人物が眺めているという単純な構図ではないように感じる。

人物の心理が風景を変え、風景が人物の見え方を変える。

その二つが混ざり合ったところに、『雪国』独特の世界が生まれている。

だから、

駒子の髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の侘しさのために反ってみじめに見えた。

という一文は、単なる黒髪の描写ではない。

人物の色彩、周囲の風景、そして見る者の心理が一つになった知覚の描写なのである。

川端康成の色彩感覚の豊かさとは、色そのものを美しく描く能力だけではない。

色から感情へ飛躍し、私たちが世界を見る感覚そのものを揺さぶる力なのではないだろうか。


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