川端康成『雪国』を読んでいると、ときどき一文のところで立ち止まってしまう。
物語の展開が気になるからではない。
その一文が作り出す光景を、しばらく眺めていたくなるのである。
たとえば、次の文章である。
「月はまるで青い氷の中の刃のように澄み出ていた。」(新潮文庫版、74頁)
非常に美しい描写だと思う。
しかし、なぜ美しいのだろう。
単に「月が刃に似ている」という比喩だけでは、この文章の魅力を十分に説明できないように思う。
夜空を「青い氷」として捉える
まず、この文章では二つのものが対応している。
夜空と青い氷。
そして、月と刃である。
単純化すれば、
夜空 → 青い氷
月 → 刃
という構造になっている。
ここで重要なのは、「月が刃のようだ」とだけ書いているのではないことである。
月は、
「青い氷の中の刃」
なのである。
おそらく川端は、澄み切った寒冷な夜空を「青い氷」として捉えている。
ここにはまず強烈な色彩感覚がある。
「青い」という一語によって、夜空の色が立ち上がる。
しかし、それだけではない。
続く「氷」によって、視覚だったはずのものが触覚へと変わっていく。
青を見る。
同時に冷たさを感じる。
さらに氷には、硬さ、透明さ、静けさといった感覚まで伴う。
一つの比喩によって複数の感覚が刺激されているのである。
月光の鋭さを「刃」にする
その青い氷の中にあるのが「刃」である。
月そのものの形だけを考えれば、刃という比喩はそれほど珍しくないかもしれない。
しかし「青い氷の中の刃」となると印象は大きく変わる。
氷の冷たさ。
刃の冷たさ。
氷の硬さ。
刃の硬さ。
そして月光の鋭さ。
それらが互いに響き合う。
ここで描かれている月は、単に目で見る対象ではなくなっている。
月光が皮膚に触れてくるような感覚がある。
夜空を見ているはずなのに、冷たいものに触れているような気がする。
私はここに川端康成の感覚の鋭さを見る。
川端康成の豊かな色彩感覚
『雪国』を読んでいると、色彩が非常に印象的に使われていることに気づく。
しかし、それは単に「色をたくさん書く」という意味での色彩感覚ではない。
色が別の感覚へと接続されていく。
青は氷になる。
氷は冷たさになる。
冷たさは刃の鋭さへつながる。
つまり、
視覚 → 触覚 → 身体感覚
という変換が、一つの短い文章の内部で起きている。
色彩が単なる装飾として置かれているのではない。
色が入口となって、読者の知覚そのものを動かしていくのである。
川端は「空間」そのものを変形させる
さらに興味深いのは、川端康成が空間そのものを独特な方法で扱っていることである。
『雪国』の有名な表現に、
「夜の底が白くなった。」(5頁)
という一文がある。
考えてみれば、奇妙な表現である。
夜に物理的な「底」は存在しない。
夜とは本来、時間に属する言葉である。
ところが川端は、それを底を持った空間として捉える。
すると読者の頭の中では、夜が巨大な容器のような奥行きを持ちはじめる。
その底から白さが立ち上がってくる。
時間的な概念だった「夜」が、立体的な空間へ変換されているのである。
家並みにまで身体が与えられる
同じことは風景描写にも見られる。
「低い家並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。」
家は伏すことができない。
「伏す」という動作は、本来なら人間や動物の身体に属する。
ところが川端は、北国の低い家並みに身体を与える。
すると家々は単なる建築物ではなくなる。
寒さに耐えるために身を低くしている生き物のように見えてくる。
ここでも、
建築物 → 身体
という知覚の変換が起きている。
「澄み出ていた」は必要なのか
最初の文章に戻りたい。
「月はまるで青い氷の中の刃のように澄み出ていた。」
私は最初、この最後の「澄み出ていた」は少し説明的ではないかと思った。
いっそのこと、
「月はまるで青い氷の中の刃のようだった。」
と止めた方が、比喩そのものは鋭くなるようにも感じた。
「刃」で文章を終えれば、像が強烈に残る。
しかし、改めて考えると、「澄み出ていた」には別の役割があるように思えてきた。
重要なのは「出て」という方向性である。
月が単に刃に似ているのではない。
青い氷のような夜空の内部から、刃のような月が澄み出てくる。
そう読むと、この文章には奥行きと運動が生まれる。
「刃のようだった」なら、一枚の静止画として比喩が完成する。
「刃のように澄み出ていた」と書くことで、その刃が空間の奥からこちらへ姿を現す。
川端は比喩を置いただけではなく、その比喩によって空間そのものを作っているのではないか。
川端康成は「別の感覚」に置き換える
ここまで読んでくると、いくつかの表現に共通したものが見えてくる。
夜という時間的なものを「底」のある空間として捉える。
家並みという無生物を、地面に伏す身体として捉える。
夜空という視覚的な対象を「青い氷」という触覚的なものへ変える。
そして月光を「刃」という鋭い物体へ変える。
川端康成は、対象をその対象の属するカテゴリーだけでは捉えない。
ある感覚を、別の感覚へ移し替える。
その瞬間、私たちがそれまで知っていたはずの風景が、少し違ったものとして現れる。
これこそ『雪国』の文章が持つ力の一つではないだろうか。
美しい比喩とは、飾ることではない
美しい文章というと、語彙を華やかにしたり、比喩をたくさん使ったりすることを想像しがちである。
しかし川端康成の文章を読んでいると、むしろ逆のことを考えさせられる。
文章そのものは短い。
説明も少ない。
それなのに、
青という色。
氷の冷たさ。
刃の鋭さ。
夜空の奥行き。
月光の透明さ。
それらが一度に立ち上がってくる。
多くを説明するのではなく、少数の言葉によって読者の複数の感覚を同時に動かしているのである。
だから私は、
「月はまるで青い氷の中の刃のように澄み出ていた。」
という一文を美しいと感じたのだと思う。
そこにあるのは単なる巧みな比喩ではない。
色彩感覚が触覚へ変わり、触覚が身体感覚へ変わり、さらに空間の知覚そのものまで変容していく。
私たちは川端の文章によって、雪国の夜空について説明されているのではない。
一瞬だけ、普段とは違う目と皮膚を与えられる。
文学の比喩が持つ力とは、世界を美しく飾ることではなく、世界の感じ方そのものを変えることなのかもしれない。
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