『雪国』はなぜ読みにくいのか――時系列と人物をあえて曖昧にする川端康成

『雪国』はなぜ読みにくいのか――時系列と人物をあえて曖昧にする川端康成

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川端康成『雪国』を読みながら、少し違和感を覚えた。

有名な、

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

という冒頭は非常に明快である。しかし、その後の物語の構成まで明快かというと、むしろ逆ではないだろうか。

少なくとも初読では、私は「これはいつの話なのか」「この女性は誰なのか」を何度か確認することになった。

葉子は早い段階で登場する。しかし駒子はなかなか「駒子」にならない


物語の冒頭では、列車の中で葉子が登場する。

ところが、その後、時間の移動が始まる。

「十二月の初めであった」といった時間を示す言葉が挿入され、さらに「あの時は」という形で過去へと遡っていく。

ここで描かれるのが、島村が以前この土地を訪れたときの出来事である。

先に物語全体の構成を整理してしまえば、それほど難しくない。

島村は駒子と複数回会う。

ところが小説の冒頭で描かれているのは、二人の最初の出会いではない。現在の場面を進めた後、途中から過去へ戻り、最初の出会いが描かれる。

つまり、出来事の順番を単純化すれば、

最初の出会い → 二度目の訪問 → その後

となるはずのものが、小説では、

二度目の訪問 → 最初の出会いを回想 → 現在へ戻る

という順序で提示される。

これだけなら、現在から過去へ遡る一般的な回想形式ともいえる。

しかし『雪国』を少し読みにくくしているのは、時系列だけではない。

「駒子」という名前まで伏せられる

回想場面に登場する女性は、すぐには「駒子」として提示されない。

「女」として描かれる。

後から構成を把握すれば、「ああ、この女が駒子だったのか」と分かる。しかし初読の読者は、その情報をまだ持っていない。

つまり川端は、

①これはいつの出来事なのか

だけでなく、

②この女はいったい誰なのか

という二つの情報を同時に確定させないのである。

葉子という別の女性もすでに登場しているため、人物関係をまだ把握していない読者にとっては、決して親切な構成ではない。

現代の小説であれば、

「三か月前――」

などと明確に場面を区切ったり、

「以前、この温泉場を訪れたとき、島村は駒子という女に出会っていた」

などと説明したりするところかもしれない。

しかし川端は、そうした交通整理をほとんどしてくれない。

しかも、時間が切り替わるところで大きく行間を空けるとは限らない。

時間が、文章の中を滑るように移動していく。

なぜ、こんなに分かりにくくするのか


では、これは単純に構成上の欠点なのだろうか。

私はそうとも言い切れないと思う。

『雪国』を読んでいると、人物相関図や時系列よりも先に、さまざまな「像」がこちらへ飛び込んでくる。

雪。

汽車。

窓ガラス。

鏡。

山。

女の顔。

声。

光。

読者はまず「誰が、いつ、何をしたのか」という情報を整理するのではなく、断片的な像の連続を経験する。

つまり川端は、物語の情報を整理して読者へ渡すことよりも、像や感覚を先行させているのではないだろうか。

そう考えると、「女」という呼び方にも意味が出てくる。

最初から「駒子」という固有名詞を与えてしまえば、その人物はただちに物語上の登場人物として固定される。

しかし「女」である間、その存在はまだ輪郭が定まらない。

読者は島村とともに、その人物を少しずつ知っていくことになる。

 「分かりにくい」と「悪い文章」は同じではない


『雪国』を読んでいて改めて考えたのは、読者を迷わせる文章をどう評価するかという問題である。

小説を書くと、

「時系列が分かりにくい」

「この人物が誰なのか分からない」

という指摘を受けることがある。

もちろん、それが単なる説明不足なら修正した方がよい。

しかし『雪国』を見ると、別の可能性も見えてくる。

情報を分かりやすく整理すれば、必ず小説がよくなるわけではない。

分かりやすくすることで失われるものもある。

逆に言えば、読者を混乱させる構成を採用するなら、

その混乱と引き換えに何を得ているのか

を考える必要があるのだと思う。

『雪国』の場合、時系列や人物をすぐには確定させない代わりに、記憶と現在が滑らかにつながり、人物より先に像が立ち上がってくる。

だから重要なのは、

「読みにくい文章を書いてはいけない」

という単純な話ではない。

その読みにくさは作品に必要なのか。

そして、

読者に負わせる負荷以上のものを、その表現によって返せているのか。

『雪国』の冒頭を読みながら、私はそんなことを考えた。


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