川端康成『雪国』を読んでいて、印象に残った一節があります。
島村は顔を窓に寄せると、夕景色見たさという風な旅愁顔を俄づくりして、掌でガラスをこすった。(新潮文庫『雪国』9頁)
私はこの文章に、非常に情感のあるものを感じました。
特に気になったのが、最後の、
「掌でガラスをこすった」
という一文です。
何気ない身体動作です。
しかし、それまで描かれてきた車窓の風景を考えると、この動作には別の意味が見えてくるように思いました。
車窓には二つの世界が重なっている
この場面の車窓は、単なる透明なガラスではありません。
外には夕景色がある。
一方、汽車の中には人がいる。
外が暗くなり、車内が明るくなることで、窓ガラスは鏡のような働きをします。
その結果、外の景色と車内にいる女性の像が、同じガラスの上で重なって見える。
本来なら別々の場所に存在している、
外の風景と、内側の女性。
その二つが一枚のガラスによって重ね合わされます。
そこには、現実でありながら幻想的な、あるいは幻影的でどこか艶めかしい世界が生まれています。
ところが島村は、そのガラスに手を伸ばします。
幻想を、自分の掌でこする
「掌でガラスをこすった。」
私はここを読んだとき、島村自身が幻想的な世界を壊そうとしているようにも感じました。
窓ガラスに浮かんだ像に、そのまま浸っていることもできる。
しかし島村はガラスをこする。
曇りを取り、外を見ようとする。
つまり、
重なった像を見る
→ガラスをこする
→外の世界をはっきり見ようとする
という動きになっています。
もちろん、実際には曇った窓を拭いただけとも読めます。
しかし小説の中では、身体動作の置かれる位置によって意味が変わります。
幻想的な像が生まれた直後に、その像を生み出しているガラスへ自分の手を伸ばす。
そこに私は、島村という人物の性質が現れているように思いました。
「旅愁顔を俄づくりして」という不思議な表現
さらに興味深いのが、その直前です。
川端は、
「旅愁顔を俄づくりして」
と書いています。
これも少し奇妙な表現です。
島村が自然に旅愁を感じている、と書いているわけではありません。
「旅愁顔」を「俄づくり」する。
つまり島村は、
「旅に出て夕景色を眺めている自分」
を、どこかで演じています。
ここには二人の島村がいるようにも見えます。
一人は、旅情を感じている島村。
もう一人は、
「自分はいま旅情を感じている旅人らしい顔をしている」
と、それを外側から眺めている島村です。
完全には自分の感情に没入しない。
感情を持ちながら、その感情を抱いている自分自身も観察している。
島村は「リアリスト」なのか
私は最初、この一連の描写から、
島村はリアリストなのではないか
と思いました。
幻想的な車窓に浸るよりも、それがどのように成立しているのかに気づいてしまう。
自分がなぜ驚いたのかにも気づく。
窓ガラスが鏡になる仕組みにも気づく。
そして最後には、自分の掌でガラスをこする。
しかし、「リアリスト」という一語で片づけてしまうと、少し狭すぎるのかもしれません。
島村は幻想を感じないわけではない。
むしろ、幻想的な美しさを十分に感じている。
ただし、その幻想の中へ完全に入っていくことができない。
幻想を見ながら、同時に、
「なぜそう見えるのか」
「自分はなぜそう感じているのか」
と考えてしまう。
幻想を見る自分自身まで、一歩離れたところから眺めている。
そんな人物なのではないでしょうか。
「説明しすぎ」という違和感が、人物造形に変わる
ここで、私は少し前に感じていた違和感を思い出しました。
この車窓の場面で、川端はかなり説明しています。
島村が驚いた理由について説明する。
さらに、なぜ窓ガラスが鏡になるのかについても説明する。
私は最初、
「せっかく幻想的な像を作ったのに、少し説明しすぎではないか」
と思いました。
しかし、島村という人物から読み直すと、別の可能性が見えてきます。
この「説明性」そのものが、島村の認識の仕方を表しているのではないか。
幻想的なものを見ても、そのまま幻想として受け取れない。
自分の心理を分析する。
現象の仕組みに気づく。
そして現実へ手を伸ばす。
そう考えると、
文章技法として読めば「説明的」。
人物造形として読めば「島村らしい」。
という二つの読みが同時に成立します。
ここが小説を読む面白さなのだと思います。
人物を説明せず、一つの動作で見せる
そして最終的に、私がもっとも惹かれたのは、やはり、
「掌でガラスをこすった」
という部分です。
もし川端が、
「島村は幻想に浸りきることのできない、現実的で自己観察的な人間だった」
と書いていたら、あまりにも説明的です。
しかし実際には、そんなことは書かない。
ただ、掌でガラスをこすらせる。
たった一つの身体動作です。
しかし、その前後を読み込むことで、そこから人物の世界との距離の取り方まで見えてくる。
人物の性格は、性格を説明する文章だけによって作られるのではない。
窓を拭く。
コップを置く。
目をそらす。
椅子を引く。
そんな小さな身体動作が、その人物について長い説明文以上のことを語る場合があります。
一文の「機能」は一つではない
小説を読むとき、
「この文章は何のためにあるのか」
と考えることがあります。
しかし、その答えは必ずしも一つではありません。
「掌でガラスをこすった」は、表面的には単なる動作描写です。
しかし前後との関係から読めば、
幻想と現実の境界を動かす行為にも見える。
島村の自己観察性を示す行為にも見える。
彼の世界との距離感を表しているようにも見える。
だからこそ、小説では一つの動作を簡単に「ただの動作」と決めつけられない。
文章単体ではなく、その文章がどこに置かれているか。
そこまで見ることで、一見何気ない一文から人物の輪郭が立ち上がってくる。
『雪国』の「掌でガラスをこすった」という短い一節から、そんなことを考えました。
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