川端康成『雪国』を読んでいて、興味深い場面に出会いました。
汽車の窓ガラスに女性の顔が映り、それを島村が目にする場面です(新潮文庫『雪国』8頁)。
私は最初、その幻想的な情景そのものに目を奪われました。
しかし、何度か読み返しているうちに、別のことが気になってきました。
この文章、骨格だけ取り出してみると、意外なほど説明的なのではないか。
そしてさらに考えてみると、そこに川端康成の文章の面白さがあるように思えてきました。
幻想的な場面なのに、かなり説明している
窓ガラスに女性の姿が映る。
島村はそれを見て驚きます。
ところが川端は、その驚きを幻想的な出来事として放置しません。
まず島村が驚いた理由について、
「しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで」(8頁)
と説明します。
つまり、予想外の現象そのものが異常だったというより、島村自身が別のことに心を向けていたため、不意を突かれたのだというわけです。
さらに今度は、なぜ窓ガラスに女性が映ったのかについて説明が続きます。
「外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明りがついている。それで窓ガラスが鏡になる。」(8頁)
こちらはさらに明快です。
外は暗い。
汽車の中は明るい。
だから窓ガラスが鏡のようになり、車内の人物を映し出す。
現象そのものは、夜の電車に乗ったことのある現代の読者なら、比較的容易に理解できるものです。
骨格だけにすると、驚くほど普通になる
そこで、この場面から川端らしい表現をいったん取り除いてみます。
すると、おおよそ次のようになります。
女の顔が窓に映っていたので驚いた。
驚いたのは、自分がぼんやりしていたからだった。
外は暗く、車内は明るかったので、窓が鏡になっていた。
これだけです。
構造として整理すると、
現象が起こる
→驚く
→なぜ驚いたのか心理的に説明する
→なぜ現象が起こったのか物理的に説明する
となります。
非常に単純明快です。
むしろ説明的とさえ言えるでしょう。
私はここが面白いと思いました。
名作を読んでいると、つい「優れた文章なのだから、その構造もきっと高度なのだろう」と考えてしまいます。
しかし、必ずしもそうではない。
骨格そのものは、驚くほど凡庸な場合がある。
「夜の電車で、窓に女の顔が映った」
さらに出来事そのものまで単純化してしまえば、
夜の汽車で、窓ガラスに女性の顔が映った。
ほとんどこれだけです。
殺人事件が起きたわけではありません。
奇跡が起こったわけでもありません。
超自然現象ですらありません。
暗い外と明るい車内によって、ガラス面に車内の人物が反射した。
物理的に説明可能な、ありふれた出来事です。
それなのに、『雪国』の中では幻想的な場面として立ち上がる。
だとすれば、この場面の文学性は「何が起こったか」だけにあるのではありません。
起こったことを、川端がどのように知覚し、どのような言葉として配置したか。
そこにあるのではないでしょうか。
「構造」と「筆致」を分けて考える
小説を読むとき、私は「構造」と「筆致」を分けて考えることがあります。
構造とは、極端に言えば、
「何が起こり、それがどうつながっているか」
という骨組みです。
一方、筆致とは、その出来事を、
どこから見るのか。
何を取り出すのか。
どんな言葉を与えるのか。
どこまで説明するのか。
といった、実際の文章としての処理です。
『雪国』のこの場面は、この二つを分けて考える格好の例だと思います。
骨格はかなり単純です。
しかも心理的な原因と物理的な原因まで説明している。
ところが実際に読むと、その単純さだけでは終わりません。
窓ガラス、夕闇、そこに浮かび上がる女性。
それらが川端独特の筆致によって配置されることで、日常的な光学現象が幻想的な像へ変換されています。
「説明的な文章=文学的ではない」でもない
ここでもう一つ、私自身の考えを修正する必要があると思いました。
私は最初、この部分について、
「せっかく幻想的な場面を作ったのに、どうしてこんなに説明してしまうのだろう」
と感じました。
「島村が驚いた理由」まで説明する。
さらに「窓が鏡になった理由」まで説明する。
少し説明しすぎではないか、と。
この違和感そのものは今でもあります。
しかし、だからといって、
説明的=文学性が低い
とは限りません。
なぜなら川端は、かなり説明しているにもかかわらず、情景の幻想性を完全には失わせていないからです。
ここには、
説明的な骨格を、筆致によって文学へ変える
という別の技術があるように思います。
「夜の底が白くなった」と比べる
同じ『雪国』には、有名な、
「夜の底が白くなった。」(5頁)
という文章があります。
こちらは対照的です。
川端は、
「夜に本当に底があるわけではない。暗い空間の下部に雪景色が広がっているため、そのように知覚されたのである」
などとは説明しません。
そんな説明をしたら、せっかくの一文が台無しでしょう。
「夜」と「底」と「白」。
ごく普通の言葉だけを置いて、あとは読者に渡してしまいます。
つまり同じ川端でも、
説明しないことで成立する文章
と、
説明的な構造を持ちながら、筆致によって読ませる文章
の両方があることになります。
ここを「川端は説明しない作家だ」と一括りにしてしまうと、かえって作品の面白さを見失うのかもしれません。
名文だから、すべてが非凡とは限らない
この場面を読んで、私は一つ大きなことを考えました。
私たちは名作を読むと、作品のあらゆる部分に高度な意味を見つけようとしがちです。
構造もすごい。
比喩もすごい。
人物造形もすごい。
すべて計算されている。
しかし、実際にはそうとは限らないのではないでしょうか。
骨格は普通なのに、文章にすると非凡になる。
そういう名文もある。
これは小説を書く側にとっても重要だと思います。
「誰も考えたことのない物語を作らなければ」
「複雑な構造を作らなければ」
と考えなくてもいい。
ありふれた出来事でも、その人にしかできない見方と言葉があれば、小説になる可能性がある。
夜の汽車で、窓に人の顔が映る。
出来事だけなら、それだけです。
しかし川端康成が書けば、『雪国』の一場面になる。
何を書くかだけではなく、どう見るか。
構造だけではなく、どう肉付けするか。
文章からいったん文体を剥がし、骨格だけを眺めてみることで、逆に「文体とは何なのか」が見えてくる。
『雪国』を読みながら、そんなことを考えました。
小説感想サービスについて
私の小説感想サービスでは、「面白かった」「続きを読みたかった」といった読後感だけで終わらず、できるだけ作品を構造と筆致に分けて読みます。
作品を「良い/悪い」だけではなく、なぜそう読めるのかまで言葉にしてほしい方は、小説感想サービスからお気軽にご相談ください。