「窓」が「鏡」になったとき――川端康成『雪国』の「拭おうともしなかった」を読む

「窓」が「鏡」になったとき――川端康成『雪国』の「拭おうともしなかった」を読む

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川端康成『雪国』を読んでいて、気になった一節がありました。

葉子が病人の男性を介助している場面を、島村が汽車の窓に映る姿として眺めているところです。(新潮文庫版・12頁)

そこでは、葉子の「暖かいしぐさ」が描かれた直後、島村は彼女の中に「澄んだ冷たさ」を新しく見つけます。そして最後には、鏡が曇ってきても、島村はそれを拭おうとしません。

短い場面ですが、ここにはいくつもの対立が仕込まれているように思いました。

「暖かい」のに「冷たい」


まず引っかかったのが、

暖かい仕草  
↓  
澄んだ冷たさ

という組み合わせです。

病人を介助しているのだから、「暖かいしぐさ」という表現は理解しやすい。

ところが川端は、そのまま葉子を「優しい女性」としてまとめません。

そこに突然、「冷たさ」を置く。

しかも、単なる「冷たさ」ではなく、「澄んだ冷たさ」です。

「冷たい」だけなら、無関心や拒絶といった意味にも読めます。しかし「澄んだ」が加わることで、透明感や純粋さ、美しさまで感じられる。

つまり葉子は、

行為としては暖かい。  

しかし島村から見た存在には、触れがたい冷たさがある。

一人の人物の中に、相反する二つの性質が同時に置かれているわけです。

そして、この「澄んだ冷たさ」が何なのか、この時点では十分には説明されません。

後に意味を持つなら伏線とも読めるでしょう。

しかし、仮に明確な「回収」がなかったとしても、この言葉はすでに機能しています。

葉子を「病人を優しく介助する女性」という一方向の人物像に固定させないからです。

なぜ川端は「窓」ではなく「鏡」と書いたのか


もう一つ面白いのが、「鏡」という言葉です。

実際にそこにある物体は、汽車の窓です。

少し前まで川端は、外が暗くなり、車内には明かりがついているため、窓ガラスが鏡のようになる仕組みまで説明しています。

ところが、この場面になると、もう「窓」ではなく「鏡」と言い切っている。

ここには、

窓 → 鏡

という認識の変化があるように思います。

物理的には窓のままです。

しかし島村にとって、それは外を見るための窓ではなく、葉子の姿が浮かび上がる「鏡」になっている。

現実の物体そのものよりも、そこに現れた像のほうへ島村の意識が移っているのです。

「拭かなかった」ではなく「拭おうともしなかった」


そして、私が特に面白いと思ったのが、

「鏡の曇ってくるのを拭おうともしなかった」

という動作です。

これより前、島村は窓ガラスを掌でこすっています。

そのとき私は、この動作を「幻想から現実へ戻る身振り」として読みました。

窓に映った女性の顔と、窓の外を流れる風景。

二つが重なって幻想的な世界が生まれている。

しかし島村がガラスに手を触れれば、それは再び「現実に存在するガラス」になる。

ところが今度は逆です。

鏡が曇ってきても、島村は手を出さない。

ここで重要なのは、単純に、

「幻想を壊したくなかったから拭かなかった」

と心理を説明してしまわないことだと思います。

本文はそこまで島村の意図を説明していません。

むしろ、

島村は、現実の窓を操作する側から、鏡の中の像をただ眺める側へ移った。

と考えたほうが面白い。

以前はガラスをこすった。

今度は拭おうともしない。

この小さな行動の差だけで、島村と幻想との距離が変化しているように見えるのです。

幻想を「守った」のではなく、現実へ戻らなかった


さらに考えてみると、「幻想を守るために拭かなかった」という解釈には少し矛盾があります。

鏡が曇り続ければ、やがて葉子の姿そのものが見えなくなるからです。

だからこれは、

幻想を保存するための合理的な行動

ではありません。

むしろ島村は、曇っていくことさえ含めて、その像に手を加えなくなったのではないでしょうか。

そう考えると、

幻想を壊さないようにした

というより、

幻想から現実へ戻るための操作をしなくなった

と読むほうがしっくりきます。

わずかな違いですが、人物の心理を説明しすぎないという意味では大きな違いです。

「澄む」と「曇る」


そしてもう一つ、これはどこまで意図的なのか慎重に考える必要がありますが、言葉の配置として興味深いところがあります。

葉子には、

澄んだ冷たさ

がある。

その葉子を映している鏡は、

曇ってくる。

「澄む」と「曇る」。

葉子そのものについては透明性を感じながら、その姿を映しているものは次第に不透明になっていく。

この対照も、葉子という人物の「見えているのに捉えられない」という感触を強めているように思います。

人物の心理を、心理説明だけで書かない

この場面から創作について考えさせられたのは、人物の内面は必ずしも内面そのものを説明しなくても描ける、ということでした。

たとえば、

島村は葉子の姿に魅了され、幻想的な世界から現実に戻りたくないと思った。

と書けば、心理は非常によく分かります。

しかし、それでは読者が解釈する余地はかなり小さくなる。

川端はここで、

暖かい/冷たい  
澄む/曇る  
窓/鏡  
こする/拭おうともしない

という、言葉や行動の関係を置いています。

そこから読者が島村の心理を組み立てる。

つまり人物心理を書くということは、必ずしも「人物が何を思ったのか」を詳しく説明することではない。

人物が何に触れ、何を見て、そして何をしなかったのか。

そこに心理を預けることもできる。



小説を読むとき、私はこうした「書かれていない心理」が、どのような文章上の仕掛けによって読者に感じられるのかを考えるのが好きです。

小説の感想・講評サービスでも、「説明が多い/少ない」だけで判断するのではなく、説明を削った場合に、行動や描写がその役割を引き受けられているかまで読みたいと思っています。


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