川端康成『雪国』を読んでいて、少し座りの悪さを感じる文章に出会いました。
島村が汽車を降り、初めて雪国の冬に触れる場面です。
内容を追っていくと、
汽車の中のぬくみが残っている
→ 本当の寒さはまだ感じていない
→ しかし雪国の冬は初めてである
→ 土地の人々の服装を見る
→ おびやかされる
という流れになっています。
最初に気になったのは、内容ではなく文章のリズムでした。
「〜くて、〜けれども、〜だから、〜れた」
この文章では、一文の中に、
〜なくて
〜けれども
〜だから
〜れた
という接続が重なっています。
構造だけを取り出すと、
原因 → 結果 → 逆接 → 原因 → 結果
となります。
「けれども」が出てくると、読者としてはそろそろ文の着地点が来るように感じます。
ところが、そこからさらに「〜だから」と理由が挟まる。
そしてようやく最後の述語へ到着する。
そのため私は最初、この文章について、
少し座りが悪い
と感じました。
川端康成といえば、
夜の底が白くなった。(5頁)
のような、非常に短く、強く、リズムの整った文章が有名です。
しかし実際に『雪国』を一文ずつ読んでみると、すべての文章がそのように研ぎ澄まされているわけではありません。
接続関係が重なり、少しゴツゴツした文章もある。
作者の名前を隠して新人賞の応募原稿として読んだなら、
「一文に論理関係が重なっています。二文に分けてもよいのではないでしょうか」
と指摘されても、それほど不思議ではない文章だと思います。
ところが、もう一度読んでいて、私は考えが少し変わりました。
最後の一語です。
「おびやかされた」
この言葉が、とても強い。
なぜ「驚いた」ではなく「おびやかされた」なのか
ここで島村が見ているのは、何か恐ろしいものではありません。
土地の人々の服装です。
雪国に暮らしている人が、雪国の冬に合わせた格好をしている。
現地の人にとっては、ごく普通の日常でしょう。
ところが島村は、それに「おびやかされる」。
ここに面白さがあります。
たとえば、
土地の人の服装を見て、寒さの厳しさを感じた。
と書けば、意味は十分に伝わります。
あるいは、
驚いた。
でも成立する。
しかし「おびやかされた」になると、強度がまるで違います。
「おびやかす」という言葉には、脅威や危険に身体が反応するような感触があります。
つまり島村は、
寒さそのものではなく、寒さの徴候におびやかされている。
のです。
まだ汽車のぬくみが身体に残っている。
だから実際の寒さは十分に感じていない。
それなのに、土地の人々の服装を見ただけで、その向こうにある厳しい冬を身体が先取りしてしまう。
ここには、
身体では、まだ寒くない。
しかし視覚では、すでに寒さに襲われている。
というズレがあります。
雪国の「日常」が、島村には「非日常」になる
さらに面白いのは、同じ光景の意味が見る人によって反転していることです。
土地の人々にとって、その服装は日常です。
しかし雪国の冬を初めて経験する島村にとっては、その日常的な服装が異様なものに見える。
言い換えれば、
土地の人の日常に、島村は非日常を感じ取っている。
だから「おびやかされた」という強い言葉が成立する。
私はここを読んだとき、なぜか大雪の中で小さなシマリスが固まっているような光景を思い浮かべました。
もちろん『雪国』にシマリスが登場するわけではありません。
これは完全に私個人の連想です。
しかし、なぜそんな映像が浮かんだのかを考えると、「おびやかされた」という言葉には、理性的に状況を分析して怖がるというより、環境の変化を察知して生き物が身をこわばらせるような、どこか野生的な感触があるからではないかと思います。
島村はまだ寒さを十分経験していない。
それでも、周囲の人間の姿を見て、何かを察知している。
この感覚を「寒そうだと思った」ではなく「おびやかされた」と書いた。
その一語によって、島村が急に一匹の生き物のように見えてくるのです。
すると、座りの悪い前半の見え方も変わってくる
ここでもう一度、最初に感じた「リズムの悪さ」に戻ります。
私は、
島村は汽車のなかのぬくみがさめなくて、そのほんとうの寒さをまだ感じなかったけれども、雪国の冬は初めてだから、土地の人のいでたちに先ずおぼやかされた。(13頁)
という構造を、少し重いと感じました。
その感覚自体は今でも変わりません。
文章として滑らかかと聞かれれば、私はそれほど滑らかではないと思います。
しかし、この文を、
最後の「おびやかされた」まで読者を連れていく文章
として考えると、評価が少し変わってきます。
述語がなかなか出てこない。
理由が続く。
逆接が入り、さらに理由が加わる。
そして最後に、
おびやかされた。
と落ちる。
強い言葉が最後まで保留されているのです。
そうすると、前半の長さは単なる欠点ではなく、最後の一語に向かう助走としても機能しているように見えてきます。
「リズムが悪い」から削る、では足りない
これは小説を講評するときにも重要なことだと思います。
文章のリズムが悪い。
接続詞が多い。
一文が長い。
だから分割しましょう。
そういう添削は簡単です。
しかし、本当に考えなければならないのは、
なぜ作者は、この一文をここまで引っ張ったのか。
ということではないでしょうか。
もちろん、単純に整理不足で長くなっている文章もあります。
しかし一方で、文末の一語を強くするために、そこまで意味を保留する文章もある。
もしこの文章を途中で切ってしまえば、読みやすくはなるでしょう。
しかし「おびやかされた」まで一気に落ちていく力は弱くなるかもしれません。
つまり、
読みやすくすることと、文章を強くすることは必ずしも同じではない。
のです。
一文全部を美しくする必要はない
川端康成の文章というと、どこを切り取っても美しい文章が並んでいるように想像してしまいます。
けれども、細かく読んでみると、必ずしもそうではない。
非常に説明的な文章もある。
構文の座りが少し悪い文章もある。
そして、その直後に強烈な一語が置かれていることもある。
今回の文章から私が感じたのは、
一文のすべてを美しくする必要はない。
ということでした。
「夜の底が白くなった。」が、一文全体で決める文章だとするなら、
「おびやかされた」で終わるこの文章は、
最後の一語で決める文章
なのかもしれません。
文章を添削するとき、私はつい「ここは長い」「ここは接続が多い」と整理したくなります。
けれども、その前にもう一つ考えたい。
この文章は、どこで読者を刺そうとしているのか。
途中のゴツゴツを整えた結果、最後の一語まで丸くしてしまったら、文章は読みやすくなっても、小説としては弱くなることがあります。
小説の感想・講評サービスでも、単純に「長文だから分ける」「説明が多いから削る」といったルールだけではなく、その文章の最も強い場所がどこにあり、前後の文章がそこへどう働いているのかまで考えて読みたいと思っています。