川端康成だから「技法」になるのか――『雪国』の視点の揺れを、無名作家の原稿として読んでみる

川端康成だから「技法」になるのか――『雪国』の視点の揺れを、無名作家の原稿として読んでみる

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川端康成『雪国』(新潮文庫11頁)を読んでいて、少し気になる箇所がありました。

汽車の窓ガラスに娘の姿が映り、その向こうを夕景色が流れていく有名な場面です。

この場面は、基本的に島村の知覚を通して描かれています。

島村にはどう見えたのか。

島村は何を錯覚したのか。

島村は何に見入ったのか。

文章はかなり明確に島村へ寄り添っています。

ところが、その後で少し不思議なことが起こります。

語りが、葉子の認識や心理へ踏み込んでいくのです。

私は最初、

「ここ、視点が揺れていないだろうか」

と思いました。

島村を通して見ていたはずなのに


この場面では、それまで島村の知覚が中心に置かれています。

窓ガラスが鏡のようになる。

そこに娘の姿が映る。

夕景色と娘の姿が重なっていく。

島村はそれに見入る。

つまり読者は、島村と一緒に車窓を眺めています。

ところが後半になると、語りは島村から見られていることに「葉子は気づくはずがなかった」(11頁)、と説明します。

さらに、葉子の意識が病人へ向けられていることにまで言及する。

ここで、それまで島村に寄っていたカメラが、少し葉子側へ移動したように感じました。

もちろん三人称小説ですから、複数の人物の内面を書くこと自体が間違いというわけではありません。

しかし問題は、

それまでどのような視点のルールで書かれていたか

です。

島村の知覚にかなり密着してきた文章の中で、突然ほかの人物の心理まで説明されれば、「視点が揺れた」と感じる読者がいても不思議ではありません。

ところが、作者名を知っている—AI講評の限界


ここで面白いことが起こりました。

この文章を書いたのは川端康成です。

私はAIともこの箇所について話していました。

するとAIは、この視点の変化について、

「単純な視点の乱れではなく、語り手が一瞬カメラを引いたと考えられる」

という方向から説明しました。

そして最後には、

「川端康成でも視点は動く」

という趣旨の言葉まで出てきました。

私は、この「でも」が気になりました。

なぜ、

「川端康成でも」

なのでしょう。

そこには無意識に、

「川端康成ほどの作家なら、単純な視点の乱れを書くはずがない」

という思い込みがAI講評には入り込んでいないでしょうか。

もし新人賞に送られてきた原稿だったら?

そこで作者名を消して考えてみました。

これが川端康成の作品ではない。

文学史に残る名作でもない。

新人文学賞に応募してきた、無名の学生が書いた原稿だったとします。

同じ文章を読んで、

「これは視点を意図的に動かすことで、二人の認識の非対称性を表現した高度な技法ですね」

と最初から評価するでしょうか。

おそらく私は、まず、

「ここまで島村に視点を寄せてきたのに、ここで葉子の心理へ入っています。視点が揺れているように感じます」

と指摘すると思います。

そして作者に、

「ここで視点を移動させる必要がありますか」

と問いかけるでしょう。

この差は何なのでしょう。

文章は同じです。

違うのは、作者名だけです。

名作には「意図」を補ってしまう


これは文学を読むときに起こりやすい問題なのかもしれません。

無名の作者の文章に不自然なところがあれば、

「視点がぶれている」

「説明しすぎている」

「比喩が唐突だ」

と評価する。

ところが有名作家の文章で同じものを見つけると、

「これは意図的な視点移動ではないか」

「説明することで人物の性質を表現しているのではないか」

「異質な比喩を置くことで美的な均衡を崩しているのではないか」

と、こちらから意味を補いたくなる。

もちろん、本当にそうした高度な技法である場合もあるでしょう。

しかし、

有名作家だから意図的なはずだ

という順番になってしまえば危険です。

それでは文章を読んでいるのではなく、作者の名前を読んでいることになります。

だからといって「視点が乱れている」で終わらせない


ただ、ここでもう一つ注意したいことがあります。

それなら『雪国』のこの箇所は単なる失敗なのか。

私は、そうとも思いません。

なぜなら、この視点の揺れによって生じている効果も確かにあるからです。

島村は葉子を見つめています。

窓に映った葉子を幻想的な存在として眺め、その眼を「妖しく美しい」ものとして捉える。

島村の側では、非常に大きな出来事が起こっています。

ところが葉子は、島村からそんなふうに見られていることを知らない。

彼女の意識は別の人物へ向かっている。

ここには、

島村にとっては特別な瞬間である。  
しかし葉子にとって島村はほとんど存在していない。

という非対称性が生まれます。

島村の幻想が、島村一人のものであることが浮かび上がってくる。

そう考えると、視点の移動には確かに機能があります。

「機能している」と「問題がない」は同じではない


ここで私は、三つのことを分ける必要があると思いました。

1. 視点が揺れているか
2. その揺れによって何らかの効果が生まれているか
3. その効果は、視点を揺らしてまで得る必要があるものなのか

この三つは別問題です。

「視点が動いた。だから悪い」

でもありません。

反対に、

「効果がある。だから問題ない」

でもありません。

まして、

「川端康成が書いている。だから技法である」

ではない。

まず文章の中で何が起きているのかを確認する。

そのうえで、その現象が作品の中でどのような働きをしているのかを見る。

最後に、その効果と違和感を比較する。

この順番で読まなければならないのだと思います。

説明過剰でも、視点の乱れでも、まず「機能」を見る

これは小説を書くときにも重要だと思います。

創作指南では、

「説明しすぎない」

「視点を統一する」

「比喩を重ねすぎない」

といった原則をよく見かけます。

もちろん、それらは有用です。

しかし小説は、原則に違反した瞬間に失敗するものではありません。

説明が多くても、その説明が人物造形として働いているかもしれない。

視点が動いても、その移動によって重要な対比が生まれているかもしれない。

だから、

ルールから外れているか

だけではなく、

外れたことによって何が生まれたのか

まで見る必要があります。

ただし、その読み方は川端康成にだけ適用してはいけない。

無名の作者にも同じように適用する。

逆に、無名の作者なら指摘する問題は、川端康成にも同じように指摘する。

そのうえで機能しているなら評価する。

これが一番公平な読み方ではないでしょうか。

作者名を隠して読めるか


今回『雪国』を読んでいて、私は作品を批評するうえで一つ面白い問いを見つけました。

「作者名を隠されても、私は同じ評価をするだろうか」

という問いです。

川端康成だから。

村上春樹だから。

芥川賞受賞作だから。

有名な編集者が評価した作品だから。

そうした情報をすべて取り除いたとき、それでも文章そのものから同じ評価を導けるのか。

これは小説を読む側にとって、かなり厳しい問いです。

しかし同時に、作品を書く側にとっても重要な問いだと思います。

新人の作品には、作者名の権威がありません。

だからこそ、

文章そのものが何をしているのか

を見なければならない。

そして、それは本来、名作を読むときにも変わらないはずです。

『雪国』の視点の揺れから、そんなことを考えました。



小説感想サービスについて


私の小説感想サービスでは、「視点がぶれています」「説明が多いです」といった創作ルールだけで機械的に作品を判断しないようにしています。

まず、その箇所で実際に何が起きているのか。

次に、それが作品の中でどのような効果を生んでいるのか。

そして、その効果を残すために現在の書き方が必要なのか。

「ルールから外れている」ことと「機能していない」ことを分けて読む。

同時に、作者の肩書きや権威ではなく、できるだけ文章そのものから判断する。

そんな読み方で、ご自身では気づきにくい作品の強みや違和感を詳しく言語化してほしい方は、小説感想サービスからお気軽にご相談ください。


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