川端康成にも「盛りすぎた一文」はある――『雪国』の星空描写を読んで考えたこと

川端康成にも「盛りすぎた一文」はある――『雪国』の星空描写を読んで考えたこと

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川端康成『雪国』を読んでいて、少し引っかかった文章がありました。

嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。(新潮文庫版、43頁)

一般に『雪国』といえば、美しい文章の代表例として語られる作品です。

実際、読んでいて驚かされる表現はいくつもあります。

しかし、作者名をいったん忘れて一文ずつ読んでみると、「これは本当にうまい文章なのだろうか」と感じるところもあります。

私はこの星空の文章に、少し「盛りすぎ」のようなものを感じました。

「嘘のように多い」は、それほど強い表現なのか


最初に気になったのは、

「嘘のように多い星」

です。

「嘘のように」という表現は便利です。

嘘のように美しい。  
嘘のように静かだ。  
嘘のように速い。

さまざまな言葉に付けることができます。

しかし、それだけに対象を新しく見せる力はそれほど強くありません。

同じ『雪国』には、

「夜の底が白くなった。」

という有名な一文があります。

こちらは「夜」と「底」という普通なら結びつかない言葉を結びつけることで、読者の空間認識そのものを変えてしまいます。

それに比べると「嘘のように多い星」は、かなり一般的な強調表現にも見えます。

川端康成という名前を伏せ、新人賞応募作の一文として読んだなら、私はここに少し引っかかると思います。

 「星を見上げる」は当たり前ではないか


次に、

「見上げていると」

という言葉です。

星は基本的に見上げるものです。

その意味では、

「星を見上げている」

という情報には、ある程度の重複があります。

最初は私も、「これはなくてもよいのではないか」と思いました。

しかし、ここはもう少し考える余地がありそうです。

「見上げていると」が入ることで、この文章は単なる星空の客観描写ではなくなります。

重要なのは、

星がどうなっているか

ではなく、

島村が星を見続けていると、どう見えてきたのか

になるからです。

実際、星がものすごい速度で落下しているわけではありません。

見上げている島村には、そう感じられた。

そう考えると、「見上げていると」は情報としては当たり前でも、知覚の主体を文章の中へ残しておく役割を持っています。

冗長に見える言葉にも機能がある。

ここは簡単に削れないところでしょう。

「落ちる」のに「浮き出る」


それでも私がこの文章に違和感を覚える最大の理由は、その後です。

「虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。」

一文の中に、

落ちる

と、

浮き出る

という、方向の異なる像が入っています。

さらに、

虚しい

と、

あざやか

も並んでいます。

「あざやか」は必ずしも肯定的な感情を意味する言葉ではありませんが、「虚しい」が感情的評価であるのに対して、「あざやか」は強い視覚的印象を表します。

そのため読者は短い間に、

多さ  
→ 見上げる  
→ 虚しさ  
→ 落下  
→ 鮮明さ  
→ 浮き出る

と、いくつもの認識を通過することになります。

これは豊かな描写ともいえます。

しかし反対から見れば、一つの星空に対して作者が少し手を加えすぎているとも感じます。

問題は長文であることではない


『雪国』には長い一文がほかにもあります。

しかし、長い文章だから読みにくいわけではありません。

手練れた書き手の長文には、情報が一方向へ進んでいくものがあります。

Aが起こる。  
それによってBを考える。  
BからCを思い出す。  
その結果Dをする。

句点がなくても、読者の意識は前へ進めます。

ところが今回の星空描写では、一つの対象に対して認識が何度も追加されます。

「嘘のように」

で強調する。

「見上げていると」

で知覚主体を入れる。

「虚しい」

で感情を加える。

「落ちつつある」

で運動を与える。

「と思われるほど」

でその知覚を限定する。

そして最後に、

「あざやかに浮き出ていた」

と視覚像を作る。

問題があるとすれば、一文の長さそのものではなく、一つの像に対する操作の多さなのではないでしょうか。

「名文」と「盛りすぎた文章」の境界


もちろん、この複雑さそのものを評価する読みもできるでしょう。

あまりにも星が鮮明だからこそ、静止している星がこちらへ迫り、落下してくるように感じられた。

そう読めば、

「あざやかに浮き出る」ことと「落ちるように感じる」こと

には一定のつながりがあります。

だから、この文章を単純に「下手」と切ってしまうのも違うと思います。

それでも私は、『雪国』のほかの文章と比較したとき、この一文には少し座りの悪さを感じます。

興味深いのは、

「夜の底が白くなった。」

という文章との違いです。

こちらも現実には存在しない奇妙な像です。

しかし、言葉は極端に少ない。

一方、星空の文章では、一つの像を成立させるために、いくつもの修飾や認識が重なっています。

異常な像なのに簡潔な文章。

美しい像を作ろうとして、言葉が重なっていく文章。

同じ作家の中にも、両方が存在します。

有名作家の文章だから「名文」と決めない


古典を読む面白さの一つは、名文を探すことだと思います。

しかし、それと同じくらい、

「これは本当にうまいのだろうか」

と疑ってみることにも意味があります。

作者名を見てから文章を評価すると、

「川端康成が書いたのだから、きっと高度な技法なのだろう」

と理由を後から探してしまうことがあります。

反対に、無名の新人の原稿なら、

「少し修飾が多いですね」

と簡単に赤を入れてしまうかもしれません。

大切なのは作者の名前ではなく、その文章の中で何が起きているのかを見ることなのでしょう。

今回の一文から私が持ち帰りたいのは、

長文を書くな、でもなければ、修飾語を減らせ、でもありません。

一つの対象について書くとき、

自分はいま、この対象に何回意味を加えているだろうか。

と考えてみることです。

一つの像に意味を重ねれば豊かになることもある。

しかし、重ねるほど鮮明になるとは限らない。

ときには一つ削ったほうが、かえって像そのものが強く立ち上がる。

『雪国』の星空を読みながら、そんなことを考えました。


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