川端康成『雪国』(新潮文庫、11頁)を読んでいて、非常に美しい場面に出会いました。
汽車の窓ガラスに娘の姿が映り、その向こうには夕景色が流れている。
島村は最初、それが窓ガラスに映った像であることを意識しています。
しかし、見入っているうちに、次第に窓ガラスそのものの存在を忘れていく。
娘が夕景色の中に浮かんでいるように見えてくるのです。
現実の車内と窓の外の風景が混ざり合い、島村は次第に夢うつつのような世界へ入っていきます。
娘の眼と、ともし火が重なる
そのとき、窓の外を流れていく「ともし火」が、窓ガラスに映った娘の顔と重なります。
ここで重要なのは、どちらか一方がもう一方を消してしまわないことです。
窓に映った娘の姿には、外のともし火を消してしまうほどの強さがない。
反対に、ともし火も娘の映像を消さない。
だから、
娘の顔+外を流れる光
という、本来なら別々の場所に存在する二つのものが、一枚の窓ガラスの上で共存します。
そして、ともし火が娘の眼と重なる。
その瞬間について川端は、
「妖しく美しい夜行虫」
と表現します。
私はここで引っかかりました。
なぜ「虫」なのだろう。
なぜ「宝石」ではないのか
ここまでの文章は、かなり幻想的です。
夕闇。
窓に浮かぶ娘。
顔の中を通り過ぎていく、ともし火。
冷たく遠い光。
そして、光と眼が重なる。
ここまで幻想的な世界を作ったのなら、その眼を「宝石」や「星」などに喩えてもよかったはずです。
しかし、もし、
「妖しく美しい宝石」
と書いていたらどうでしょう。
「妖しい」
「美しい」
「宝石」
すべてが同じ方向を向いてしまいます。
美しいものを描くために、美しい形容をして、最後にも美しいものを置く。
美+美+美。
少し荷重がかかりすぎるように感じます。
ところが川端が最後に置いたのは、
「虫」
でした。
「妖しい+美しい+虫」
「妖しく美しい」という言葉によって、読者はかなり美的な方向へ導かれています。
その先に突然、
夜行虫
が来る。
虫という言葉には、「宝石」や「星」とは違った感触があります。
小さい。
生きている。
夜の中を動く。
そして、人によっては少し不気味ですらある。
つまり、
妖しい+美しい+宝石
ではなく、
妖しい+美しい+虫
になっている。
最後だけ、言葉の向いている方向が少し違うのです。
私は、この異質さによって、それまで積み上げられてきた幻想的な文章の荷重が和らいでいるように感じました。
ただし「虫」は無関係な異物ではない
ここがさらに面白いところです。
「虫」という意外なものを持ってくれば何でもいい、という話ではありません。
夜行虫は、この場面とちゃんとつながっています。
夕闇の中にいる。
小さい。
光を思わせる。
一瞬だけ視界に現れる。
そうした性質は、「夕闇の中で娘の眼とともし火が一瞬重なる」という場面とよく対応しています。
つまり夜行虫は、
意味としては場面につながっている。
しかし語感としては、それまでの美的な流れから少し外れている。
この距離感が絶妙なのだと思います。
完全に無関係な言葉なら、ただ奇抜な比喩になってしまう。
逆に意味も語感もすべて同じ方向なら、文章が重たくなる。
川端は、その中間に「夜行虫」を置いています。
二つのものが重なった瞬間にだけ現れる生き物
もう一つ、この「夜行虫」には面白いところがあります。
実際にそこに夜行虫が飛んでいるわけではありません。
あるのは、娘の眼と、ともし火です。
しかも両者は現実には別々の場所にあります。
娘は汽車の中。
ともし火は窓の外。
それが窓ガラスという一枚の面によって重ねられる。
そして一瞬だけ、
「妖しく美しい夜行虫」
が生まれる。
そう考えると、この夜行虫は「娘の眼」の単純な比喩ではないようにも思えてきます。
娘の眼だけでは、夜行虫は存在しない。
ともし火だけでも存在しない。
娘の眼×ともし火
によって、その瞬間だけ現れる第三の像なのです。
現実には存在しないものが、二つの現実が重なったことによって生まれる。
『雪国』のこの車窓そのものが、そういう装置になっています。
美しい文章だから、美しい言葉を重ねるとは限らない
ここから創作について考えました。
美しい場面を書こうとすると、つい美しい言葉を探したくなります。
幻想的な場面なら、幻想的な形容詞を増やしたくなる。
悲しい場面なら、悲しい言葉を重ねたくなる。
しかし、同じ方向の言葉ばかりを重ねると、かえって文章が平板になることがあります。
以前、私は文章について、
黒を描くために、黒ばかり置く必要はない。
ということを考えました。
今回も、それに近いのだと思います。
美しいものを書くために、美しいものだけを並べなくていい。
艶めかしい場面だからといって、艶めかしい比喩だけを置かなくていい。
むしろ、その流れの中に、
意味としてはつながっているが、語感としては少し異質なもの
を置く。
すると文章に凹凸が生まれます。
川端の「夜行虫」は、その好例ではないでしょうか。
「意外な比喩」と「奇抜な比喩」は違う
私はここに、小説を書くうえで大切な違いがあるように思います。
意外な比喩と、奇抜な比喩は違う。
誰も思いつかない言葉を使えば、優れた比喩になるわけではありません。
読んだ瞬間には、
「なぜ虫なのだろう」
と少し引っかかる。
しかし前後を読み返してみると、
「なるほど、この場面なら夜行虫なのかもしれない」
と思える。
そのくらいの距離が面白い。
一瞬だけ読者を裏切り、そのあとで文章全体につながる。
だから比喩が飾りではなく、作品の中で機能するのだと思います。
川端康成の「妖しく美しい夜行虫」という表現から、そんな文章の作り方を考えました。
小説感想サービスについて
私の小説感想サービスでは、「この表現がきれいでした」「この比喩が好きでした」という感想だけで終わらせず、なぜその表現が機能しているのかを、前後の文章との関係から考えます。
比喩が作品の世界観につながっているのか。
形容を重ねすぎて文章が重くなっていないか。
意外な言葉が効果的な異物になっているのか、それとも単に浮いているのか。
そうした文章の細部まで読み込みます。
ご自身の作品について、「文章の魅力がどこにあるのか」「どこを削り、どこを残すべきなのか」を第三者の視点から詳しく読んでもらいたい方は、小説感想サービスからお気軽にご相談ください。