川端康成『雪国』を読んでいて、気になる一文がありました。
「雪の鳴るような静けさが身にしみて」(新潮文庫『雪国』、40頁)
島村と女とのやり取りの中に現れる表現です。
最初に読んだとき、私は「雪の鳴る」という言葉に引っかかりました。
雪が鳴る。
もちろん雪国では、雪を踏みしめれば音がするでしょう。雪質によっては、きゅっ、きゅっ、という独特の音も生まれます。
しかし、この文章で面白いのは、単に雪が発する物理的な音を説明しているだけではないように感じられるところです。
「静けさ」を説明するための比喩もまた不思議である
文章の構造を単純にすると、
雪の鳴るような + 静けさ
です。
つまり「静けさ」がどんなものだったのかを、「雪の鳴るような」という直喩によって表現しています。
ところが、ここには少し変わったところがあります。
普通、比喩によって何かを説明する場合、説明する側の像は比較的つかみやすいものになります。
ところが、
「雪が鳴る」
という表現自体が、すでにかなり文学的なのです。
「静けさ」という捉えにくい感覚を説明するために「雪の鳴る」という像を持ってくる。
しかし、その「雪の鳴る」もまた、一度立ち止まって考えたくなる表現です。
つまり、
静けさ
→ 雪の鳴るようなもの
→ ところで、雪が鳴るとは何なのか
となる。
分かりやすいものを使って分かりにくいものを説明するのではありません。
むしろ、ある感覚を、別の不思議な感覚によって立ち上げています。
『雪国』では、すでに「静けさ」が鳴っている
さらに興味深いのは、『雪国』の少し前にも、よく似た表現が現れることです。
「しいんと静けさが鳴っていた」(29頁)
ここではさらに直接的です。
鳴っているのは「静けさ」そのものです。
普通なら、
音が鳴る。
ところが川端は、
静けさが鳴る。
と書く。
静けさとは、むしろ音が存在しない状態のはずです。
それを「鳴る」という聴覚的な動詞と結びつける。
あまりに静かであるため、その静けさそのものを耳で感じているような表現です。
そして後に、
「雪の鳴るような静けさ」
が現れる。
同じ作品の中で、「静けさ」と「鳴る」という二つの言葉が、少し形を変えながら再び結びついているわけです。
『蹴りたい背中』の「さびしさは鳴る。」
ここで私は、別の小説を思い出しました。
綿矢りさ『蹴りたい背中』です。
その冒頭は、
「さびしさは鳴る。」
という印象的な一文から始まります。
刊行当時、この書き出しの文学性についてさまざまな反応があったと記憶しています。
しかし『雪国』を読んでいると、少なくとも構造的によく似た先行表現が存在することに気づきます。
静けさが鳴る。
そして、
さびしさは鳴る。
もちろん、これだけで川端の文章が『蹴りたい背中』の「元ネタだった」と結論づけることはできません。
影響関係を主張するためには、作者の読書歴や発言など、別の根拠が必要になります。また、「○○が鳴る」という表現そのものに、さらに古い用例が存在する可能性もあります。
それでも二つを並べると、文章表現として興味深い共通点があります。
どちらも、本来なら耳では聞こえないものを「鳴る」という動詞によって聴覚化しているのです。
川端の場合は「静けさ」。
綿矢の場合は「さびしさ」。
物理的な音ではないものを、音として経験させています。
「雪が鳴る」は情報量の多い表現である
私は「雪が鳴る」という表現そのものも面白いと思います。
少し俗な言い方をすれば、非常に「コストパフォーマンスの高い」言葉です。
「雪が鳴る」と書くだけで、
雪景色。
寒さ。
静寂。
雪を踏んだときの音。
音がはっきり感じられるほど静かな空間。
そうした複数の感覚が、一度に呼び起こされます。
これをすべて説明しようとすれば、かなりの文章量が必要になります。
しかし、
雪が鳴る。
それだけなら数文字です。
文学的な表現の強さは、難しい言葉を使うことだけにあるのではなく、少ない言葉から、どれだけ多くの感覚を立ち上げられるかにもあるのでしょう。
「声を強める」瞬間に「静けさ」がやってくる
この文章は、置かれている位置も興味深いところです。
島村は「もう一度声を強めよう」とします。
つまり、自分から声を出し、場を動かそうとしている。
ところが、その途端に、
「雪の鳴るような静けさ」
が身にしみる。
声を強めようとした瞬間に、正反対の「静けさ」がやってくるわけです。
そして、その感覚を経て、島村は女へ惹きつけられていく。
大まかに並べるなら、
声を強めようとする
→ 雪の鳴るような静けさ
→ 身にしみる
→ 女に惹きつけられる
となります。
ここでは「雪の鳴るような静けさ」が、美しい風景を作るためだけに置かれているわけではありません。
島村の心理が動く、その途中に置かれているのです。
自分から声を強めようとする能動的な島村が、逆に「静けさ」を身体で受け取り、女へ引き寄せられていく。
短い表現が、場面の転換点として働いています。
美しい言葉は「飾り」なのか
小説を書いていると、比喩や美しい表現について、
「これは単なる飾りではないか」
と考えることがあります。
確かに、文章を美しく見せるためだけの比喩なら、削っても場面そのものは変わらないかもしれません。
しかし『雪国』のこの文章を見ると、別の可能性が見えてきます。
比喩が人物の知覚を作り、その知覚が次の心理へつながっていく。
そうなれば比喩は装飾ではありません。
物語を動かす文章になります。
「雪の鳴るような静けさ」。
わずかな言葉なのに、雪景色を作り、音を作り、静寂を作り、そして島村を女へ近づける。
美しい文章を書くとは、華麗な言葉をたくさん置くことではなく、一つの言葉に複数の仕事をさせることなのかもしれません。
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