川端康成『雪国』を読んでいて、こんな短い一文に目が止まりました。
外の雨の音が俄に激しくなった。(新潮文庫版、33頁)
島村と女とのやり取りが続いている場面に、突然この一文が挿入されます。
一見すれば、ただ天候を説明しているだけの文章です。
しかし、よく見ると川端は、
「外の雨がにわかに激しくなった」
とは書いていません。
「外の雨の音が」激しくなったと書いています。
この違いが面白いと思いました。
島村は外を見ていない
「雨が激しくなった」であれば、屋外で起きている現象そのものを語り手が説明しているようにも読めます。
しかし「雨の音が激しくなった」となると、中心になるのは視覚ではなく聴覚です。
島村は女と対峙しています。
そこでわざわざ視線を外へ移し、雨の様子を確認する必要はありません。
女を見ている。
しかし、外から雨の音は聞こえてくる。
しかも、その音が「にわかに」激しくなる。
つまり、場面そのものは室内から動いていないのに、外界だけが音となって二人のいる場所へ入り込んでくるのです。
もしここで雨の景色を詳しく描けば、読者の視線もいったん二人から離れてしまいます。
ところが「雨の音」なら、二人の対峙を中断しない。
視線は女に向けたまま、耳から外界だけを入れることができます。
「にわかに」が場面を揺らす
さらに気になるのが「にわかに」です。
単に、
「外では雨の音がしていた」
なら、雨は背景になります。
しかし、
「にわかに激しくなった」
と変化を与えることで、背景だったはずの雨が突然、前景へ出てきます。
二人の間でやり取りが続いている。
その最中に、雨音が急に強くなる。
私はここに少し不穏なものを感じました。
もちろん、「激しくなる雨=二人の心理状態を象徴している」とまで決めてしまう必要はないでしょう。
けれども、人物同士の緊張を描いている場面に、突然強くなる音を置けば、読者が両者を重ねて感じることはあります。
川端は「二人の間に緊張が走った」と説明する代わりに、外から一つの音を持ってきた、とも読めます。
雨音は「侵入」すると同時に二人を「隔離」する
そして私は、この一文からもう一つの情景を思い浮かべました。
激しい雨の中に、二人だけがいる。
不思議なのは、雨音には正反対の二つの働きがあることです。
外から室内へ雨音が聞こえてくるという意味では、外界が二人の空間へ侵入してくる音です。
ところが雨が激しくなればなるほど、同時に室内と外界との境界も強く感じられます。
外では雨が降っている。
その中で、二人だけが向き合っている。
すると雨音は、外から入ってくるものでありながら、逆に二人を外の世界から切り離し、包み込むものにもなります。
私はこの一文に、そんな二重の働きを感じました。
『雪国』では風景が「背景」で終わらない
少し前にも、こんな文章がありました。
その首に杉林の小暗い青が映るようだった。(29頁)
その直前では、女が「うつ向いて素気なく」話しています。
そこへ「杉林の小暗い青」が重なります。
人物の心理を直接説明するのではなく、人物から受けた印象を周囲の色彩へ渡しているようにも読めます。
今回の雨音にも似たものがあります。
人物のやり取り
→ 外の雨音
→ にわかに激しくなる
風景が人物とは無関係な背景として置かれているのではありません。
色や音が、人物同士の空間へ入り込んできます。
これは小説を書く側から考えても面白いところです。
「主人公は不安になった」
「二人の間には緊張が走った」
と心理を直接書くことはできます。
しかし、それとは別に、
その人物には今、何が見えているのか。
何が聞こえているのか。
を考えてみる。
心理描写を一つ増やす代わりに、雨音を一つ置く。
そうすると風景描写は単なる飾りではなく、人物のいる場そのものを作り始めます。
今回の一文は短い。
けれども、
「雨」ではなく「雨の音」と書く。
その小さな選択によって、視線を女から逸らさず、外界を室内へ入れ、さらに二人だけの空間まで浮かび上がらせる。
小説では、何を描写するかだけではなく、どの感覚器官を通して描写するかもまた、場面を作る重要な選択なのだと思いました。
皆さんの大切な作品も上のような読み方で読後感をお伝えするサービスを提供しています。