『雪国』はなぜ分かりにくいのに美しいのか――川端康成が「説明」より「知覚」を選ぶとき

『雪国』はなぜ分かりにくいのに美しいのか――川端康成が「説明」より「知覚」を選ぶとき

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川端康成『雪国』を精読している。

読み進めながら感じたのは、この作品には非常に美しい文章がある一方で、構成や人物関係については意外なほど読み取りにくいところがある、ということだった。

しかし読み込んでいくうちに、この二つは別々の特徴ではないのではないかと思うようになった。

川端康成は、情報を正確に整理して読者に伝えることよりも、「その瞬間に世界がどのように知覚されたか」を文章にすることを優先しているのではないか。

そんな仮説である。

「悲しいほど美しい」という不思議な表現


『雪国』には「悲しいほど美しい声」(新潮文庫、54頁)という有名な表現がある。

私はこの「悲しいほど美しい」という言い回しに引っかかった。

「悲しい」と「美しい」は、本来なら別の性質を表す言葉である。

「美しく、悲しい声」

と書くこともできる。

しかし川端はそうしない。

「悲しいほど美しい」。

ここでは悲しさと美しさが並列されているのではなく、美しさの程度を示すために「悲しい」が使われている。

あまりに美しいため、その美しさが悲しさにまで達してしまう。

美と悲哀という異なる感情が「ほど」という短い言葉によって接続されている。

私はここに川端の独特な感性を見る。

「夜」に底がある

有名な冒頭にも同じようなことを感じる。

「夜の底が白くなった。」(同5頁)

考えてみれば不思議な文章である。

夜は時間的な現象である。

箱や谷のように「底」が存在するわけではない。

ところが川端は夜というものを、底を持った一つの空間のように表現する。

時間的なものが空間的なものへ変換される。

すると私たちは、単に「夜が明けてきた」と理解するのではなく、暗い巨大な空間の底から白さが現れてくるような像を見ることになる。

意味を説明する文章ではない。

読者の頭の中に空間を発生させる文章である。

家並みに身体を与える


さらに、

「低い家並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。」(48頁)

という表現も興味深い。

家は「伏す」ことができない。

伏すのは本来、人間や動物の身体である。

ところが川端は家並みに身体性を与える。

すると雪国の低い家々は、単なる建築物ではなくなる。

寒さに耐えるため、身を低くして地面に伏している生き物のように見えてくる。

ここまでの表現には、ある共通点があるように思う。

感情を、別の感情によって捉える。

時間を、空間として捉える。

風景を、身体として捉える。

川端は対象をそのまま説明するのではなく、一度異質な感覚へと移し替えることで、対象を鮮明にしているのではないだろうか。

なぜ駒子を「女」と呼ぶのか


そして、この特徴は比喩表現だけではない。

『雪国』の構成そのものにも現れているように思う。

作品の序盤では、島村と駒子の過去が回想される。

ところが、そこで駒子は最初から「駒子」と呼ばれるわけではない。

「女」として描かれる。

これは初読ではかなり分かりにくい。

すでに葉子という別の女性も登場しているため、人物関係を把握しようとすると、「この女はいったい誰なのか」となる。

作者が最初から「駒子」と書けば簡単に解決する。

しかし、そうしない。

私は当初、単に人物の名前を伏せることで情報を遅らせているのだと思っていた。

ところが読み進めると、さらに奇妙なことが起こる。

今度は葉子が「娘」になる


葉子という名前がすでに読者に示された後にもかかわらず、川端は再び固有名詞を外す。

島村が鏡の中の駒子を見た場面で、汽車の窓ガラスに映っていた葉子を思い出す。

ところが、そのとき彼女は「葉子」ではなく「娘」と呼ばれる。

ここが面白い。

駒子は「女」になり、葉子は「娘」になる。

作者は二人の名前を知らないわけではない。

読者もすでに名前を知っている。

それでも固有名詞を外す。

これは単なる情報不足では説明しにくい。

人物ではなく「像」を見ているのではないか


ここで一つの仮説が浮かんだ。

島村にとって女性は、常に「駒子」「葉子」という一人の人格として存在しているわけではないのではないか。

ある瞬間には「駒子」であり、ある瞬間には「女」になる。

ある瞬間には「葉子」であり、ある瞬間には「娘」になる。

特に『雪国』では、女性が直接見られるだけではない。

鏡。

汽車の窓ガラス。

雪景色。

さまざまなものを介して女性の姿が現れる。

そこでは「葉子という人物について考える」というより、窓ガラスに浮かび上がった一人の娘の像を見ることになる。

もし、

「汽車の窓ガラスに写っていた葉子」

と書けば、駒子と葉子という二人の登場人物の比較になる。

しかし、

「汽車の窓ガラスに写っていた娘」

とすれば、読者の前にまず一つの像が現れる。

固有名詞によって人物を整理することより、島村の目にどう見えたかが優先される。

そう考えると、駒子を「女」と呼ぶことも、葉子を「娘」と呼ぶことも、同じ方向を向いているように思えてくる。

分かりやすさより「知覚としての鮮明さ」


もちろん、「川端康成が意図的にそうした」と作者の心理まで断定することには慎重でありたい。

名作だからすべての表現に深い意図があるはずだ、と考えてしまう権威へのバイアスもあり得る。

しかし、少なくとも本文上で生じている効果については考えることができる。

「駒子」と書けば人物は明確になる。

「葉子」と書けば人物関係も整理しやすい。

それを「女」「娘」とすることで、情報としての分かりやすさは低下する。

その代わり、その瞬間に島村の目に映った女性の像が前景化する。

私は『雪国』を読みながら、

情報としての明晰さを犠牲にして、知覚としての鮮明さを獲得している

のではないかと思った。

これは「夜の底が白くなった」という文章ともつながる。

夜が実際に底を持っているわけではない。

家並みが実際に地面へ伏しているわけでもない。

美しい声が物理的に悲しいわけでもない。

しかし、そのように書いた方が、その瞬間に人間が経験した世界を鮮明に伝えられることがある。

正確さを少し崩すことで、かえって経験が正確になる。

そんな逆説が『雪国』にはあるように思う。

小説にとって「分かりやすさ」は絶対的な善なのか


これは小説を書く側にとっても重要な問題だと思う。

文章を書いていると、

「誰のことか分からない」

「時系列が分かりにくい」

「もっと説明した方がいい」

という問題にぶつかる。

もちろん、単なる説明不足なら直した方がいい。

しかし、すべてを整理してしまえばいいわけでもない。

説明を加えれば、情報は明確になる。

その一方で、読者がその場面を直接経験する感覚が失われることもある。

だから問題は、

分かりやすいか、分かりにくいか

だけではないのだと思う。

問うべきなのは、

その分かりにくさと引き換えに、作品は読者へ何を渡しているのか。

ということなのではないだろうか。

川端康成は『雪国』で、読者にかなりの負荷をかける。

時系列も簡単には整理してくれない。

人物の名前さえ、ときに取り上げてしまう。

それでも文章を読み進めてしまうのは、その代わりに、雪や夜や女の姿が異様なほど鮮明に立ち上がってくるからなのかもしれない。

『雪国』は、分かりやすく世界を説明する小説ではない。

世界が人間の目にどう現れるのかを、言葉によってもう一度経験させる小説なのではないか。

そんなことを考えながら、私は赤線だらけになった『雪国』を読み進めている。


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