川端康成『雪国』を読んでいて、一匹の蛾を描いた場面(新潮文庫、86頁)に目が止まった。
窓にはまだ夏の虫除けの金網が残っている。そこに大きな蛾がとまっている。
そして川端は、その蛾について、
「女の指の長さほどある翅だった。」(86頁)
と書く。
単に「大きな蛾だった」と書けば済むところである。
しかし川端は、蛾の大きさをセンチメートルで測るわけでも、「大きい」という形容詞だけで済ませるわけでもない。
「女の指」を尺度にする。
私はここに、『雪国』という作品における独特な身体感覚を感じた。
なぜ「女の指」なのか
『雪国』を読んできた読者にとって、「女の指」という言葉は少し意味深長である。
島村にとって駒子の記憶は、身体、とりわけ「指」と強く結びついているからだ。
だから、
女の指の長さほどある
という表現を読むと、これは単なる長さの説明以上のものとして響いてくる。
もちろん、川端がここで意図的に駒子を暗示した、とまで断定することはできない。
しかし少なくとも作品を読む側にとっては、すでに意味を与えられた「女の指」という身体の記憶と、目の前の蛾とが重なり合う。
蛾という小さな生物の描写に、女の身体の記憶が入り込んでくるのである。
蛾という、美しくなさそうなものを見る
もう一つ興味深いのは、川端が「蛾」をこれほど細かく見つめていることだ。
蝶ならば、美しいものとして描くことにそれほど違和感はない。
しかし蛾は、一般には必ずしも美的な凝視の対象になりやすい生物ではない。
ところが川端は、その蛾を見過ごさない。
翅の大きさを見る。
色を見る。
透明感を見る。
風に揺れる様子を見る。
つまり、もともと「美しいもの」を選んで美しく描いているだけではない。
普通なら通り過ぎてしまいそうな対象を凝視することで、そこから美を立ち上げている。
私はここに川端康成の感性の特徴があるように思う。
この短い場面には色があふれている
さらに、この場面を読み返して驚くのは色彩の多さである。
玉蜀黍色。
檜皮色。
薄緑。
秋に色づいた山。
濃い緑。
短い範囲にさまざまな色が現れる。
しかし川端の色彩表現は、単に風景をカラフルにするためのものではない。
特に印象的なのが「薄緑」である。
秋が近づき、周囲がすでに色づき始めている。
その中に、透き通るような薄緑の翅がある。
普通なら「緑」という色には、若さや生命を感じても不思議ではない。
ところが川端は、その薄緑を見て、
「反って死のようであった。」(86頁)
と書く。
ここで色の意味が反転する。
緑なのに、生ではなく死を感じる。
これは非常に川端らしい感覚ではないだろうか。
「反って」という反転
以前、『雪国』の別の文章について考えた。
駒子の黒髪について、
「髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の侘しさのために反ってみじめに見えた。」(78頁)
と描かれる場面である。
黒く豊かな髪なら、普通は女性の美しさを強調する方向へ向かいそうである。
しかし川端は「反ってみじめ」と感じる。
今回も同じだ。
緑なら生命。
黒髪なら美。
そうした一般的な連想にそのまま従わない。
黒 → 美ではなく、みじめ。
緑 → 生ではなく、死。
対象そのものに意味が固定されているのではない。
周囲の風景や季節、そしてそれを見る人間の知覚によって、意味が反転するのである。
川端にとって色とは、単なる物体の属性ではないのだろう。
色は感情や生死の感覚へ移っていくための入口なのである。
生きているのか、死んでいるのか
そして、この蛾の描写でもっとも惹かれたのが、生と死の境界である。
蛾は最初、静かにとまっている。
その薄緑は「死のよう」に見える。
ところが秋風が吹く。
すると、
「その翅は薄紙のようにひらひらと揺れた。」(86頁)
死んでいるとは書いていない。
生き生きと羽ばたいたとも書いていない。
ただ、風によって「ひらひらと揺れた」。
ここが美しい。
生きているのか、死んでいるのか、はっきりしない。
しかも翅は「薄紙」にたとえられる。
薄紙には軽さがある。
同時に、破れてしまいそうな脆さもある。
そのため、翅が動いたからといって生命力が回復するわけではない。
むしろ、
死のような静止と、生命のような微かな運動との間
を、蛾は漂っているように見える。
季節そのものも境界にある
考えてみれば、この場面は季節についても同じ構造になっている。
窓には、
「まだ夏の虫除けの金網」
が張られている。
しかし山々はすでに秋へ向かっている。
つまり、
夏が残っている。
しかし秋はもう始まっている。
季節そのものが境界にある。
そこに、
生きているのか死んでいるのか判然としない蛾
が置かれる。
夏と秋。
生と死。
静止と運動。
緑と秋の色。
それらが互いに重なっている。
だからこの場面には、現実の風景を描いているだけなのに、どこか幻想的な感触が生まれるのではないだろうか。
現実を描きながら、知覚を変える
これまで『雪国』を読んできて、私は川端康成の文章には一つの特徴があるように感じている。
川端は、対象をそのままのカテゴリーに置いておかない。
「夜」には底が生まれる。
夜空は「青い氷」になる。
月光は「刃」になる。
駒子の黒髪は「みじめ」という感情へ変わる。
そして今回、一匹の蛾は、
女の身体、色彩、季節、生と死
へとつながっていく。
一匹の蛾を描いているだけなのに、読んでいる側の知覚はそこからどんどん別の領域へ連れていかれる。
川端康成の文章の美しさとは、単に美しいものを美しく描くことではないのだと思う。
普通なら見過ごしてしまうものを凝視し、異なる感覚や記憶を重ね合わせることで、世界の見え方そのものを変えてしまう。
だから『雪国』では、一匹の蛾さえ幻想的な存在として立ち上がってくる。
「女の指」ほどの翅を持ち、秋の色彩の中で死のような薄緑を見せ、最後には風を受けて薄紙のように揺れる。
それは「蛾は美しい」と説明する文章ではない。
読者がその蛾を美しいと感じてしまうように、知覚そのものを組み替える文章なのである。
皆さんの作品も読みます。サービスはこちら👇