小説を読んでいると、思わず線を引きたくなるような比喩に出会うことがある。
「こんな見方があったのか」と、それまで見えていなかったものが突然見える。
一方で、比喩を読んでも、
「いや、それはもう分かっている」
と感じることもある。
両者の違いは何なのだろう。
又吉直樹の小説(『人間』)を読んでいて、面白い台詞に出会った。
登場人物が相手の喩えに苛立ち、すでに理解している状況をわざわざ喩える必要はない、と批判する場面である。
ここには、単なる口論を超えて、「そもそも比喩とは何のために存在するのか」という文章論が含まれているように思えた。
「うまいことを言う」ことが比喩ではない
比喩を書くとき、書き手には誘惑がある。
普通に書けば一行で済むところに、気の利いた表現を置きたくなる。
書いた本人には、
「これはうまく書けた」
という手応えがある。
しかし、読者にとって重要なのは、作者がうまいことを言えたかどうかではない。
その比喩によって、何か新しいものが見えるようになったか。
ここが重要なのではないだろうか。
たとえば、
「彼は怒っていた」
という状況がすでに十分伝わっているとする。
そこへ別の比喩を追加しても、それが単に「ものすごく怒っている」という意味を言い換えているだけなら、文章量は増えても情報はほとんど増えていない。
表現は増えた。
しかし、意味は増えていない。
作中人物が苛立っているのは、まさにそこなのだと思う。
良い比喩は「説明」ではなく「発見」を増やす
では、良い比喩とは何なのだろう。
同じ作品の中に、興味深い例があった。
本から得た知識や思想を、そのまま自分のもののように語ってしまう人物がいる。
主人公はその姿を、修学旅行先で買ったサングラスをかけて悪ぶっている中学生になぞらえる。
私はこの比喩は非常にうまいと思った。
なぜなら、単なる言い換えではないからだ。
「借り物である」
「本人は格好いいと思っている」
「周囲には背伸びが見えている」
「少し痛々しい」
といった複数の感覚が、一つの像から立ち上がる。
さらに、中学生ならその背伸びすら微笑ましく見える。
ところが主人公は、目の前の人物については同じように愛することができない。
そこまで含めると、比喩によって主人公自身の感情まで見えてくる。
これは単なる装飾ではない。
比喩を置く前には存在しなかった意味が、比喩によって増えている。
私はここに、良い比喩の条件の一つがあるように思う。
「強い言葉」と「解像度」は別物
一方で、文章を強く見せようとする言葉が、必ずしも像を鮮明にするとは限らない。
作中には、白いTシャツが強く光を反射するという描写がある。
もちろん物理的には不自然ではない。
しかし「強烈」といった程度の強さを示す言葉を加えても、それだけで読者の頭の中に具体的な光景が生まれるわけではない。
ここには、
表現の強度と、知覚の解像度は別である
という問題がある。
「激しく」「猛烈に」「強烈に」と書けば、程度は指定できる。
しかし、
「何が、どのように見えたのか」
まで具体的になるとは限らない。
比喩についても同じだろう。
派手な喩えを使ったからといって、文章の解像度まで上がるわけではない。
説明を追加することと意味を追加すること
この作品を読みながら、私は何度か同じ種類の違和感を覚えた。
描写によってすでに分かることを、その後でもう一度説明する文章である。
たとえば、相手に気を遣って本心とは違う返答をしたあと、それが嘘だったことまで言葉にする。
意味はよく分かる。
むしろ、分かりすぎる。
しかし読者としては、
「そこは自分で読み取れる」
とも感じる。
これと、作中人物による「こっちがすでに理解してる状況をわざわざ自己満足で喩えてくるな」(83頁)という批判は、不思議なほど近い。
どちらにも、
文章を増やしたことと、意味を増やしたことは同じではない
という問題があるからだ。
又吉作品自身に、その基準を当ててみる
ここが今回の読書で最も面白かった。
又吉は比喩を多用する作家である。
そして、この作品の登場人物自身が、不要な比喩をかなり厳しく批判している。
もちろん、登場人物の台詞をそのまま作者本人の文学論だと断定することはできない。
しかし、作品内部に一つの基準が提出されたことは確かである。
ならば読者としては、その基準を作品そのものにも当ててみたくなる。
この比喩によって、それまで見えなかったものが見えただろうか。
それとも、
すでに分かっていることを、別の言葉でもう一度言っただけだろうか。
この問いを持って読むと、比喩の見え方がかなり変わる。
「お気に入りのTシャツ」はなぜ残るのか
この作品には、比喩ではないが、非常に印象に残った具体物もある。
芸術家たちの世界に触れた主人公が、自分がお気に入りのTシャツを着てその場所へ来たことを、突然恥ずかしく感じる場面である。(29頁)
ここでは主人公の自意識について細かな説明をしていない。
「芸術を表面的に捉えていた自分が恥ずかしい」
とも書かない。
ただ、Tシャツが恥ずかしくなる。
だから読者は考える。
なぜTシャツが恥ずかしくなったのだろう。
その問いから、主人公がその場所へ来る前に抱いていた期待や、少し格好をつけていた自分への羞恥が立ち上がってくる。
これは説明ではない。
物を一つ置くことで、読者に意味を発見させている。
修学旅行先のサングラスにも同じ力がある。
抽象的な心理を延々説明するより、具体物が一つ置かれた瞬間のほうが、人物の自意識が鮮明になることがある。
比喩には仕事をさせる
小説を書くとき、比喩を入れたくなることは多い。
しかし、そのとき一度だけ自分に問いかけてみてもいいのかもしれない。
この比喩を削ったら、何が失われるだろう。
何も失われないのであれば、その比喩は装飾に近い。
逆に、その比喩を削った瞬間、
人物の性格が見えなくなる。
感情の複雑さが消える。
それまで存在しなかった風景が消える。
そういう比喩なら、そこには仕事がある。
良い比喩とは、単に「うまい表現」なのではない。
読者がすでに分かっていることを言い換えるのではなく、まだ見えていなかったものを一つ見せる表現なのだと思う。
今回の作品には、不要ではないかと感じる説明もあれば、一つの具体物だけで人物の自意識を鮮やかに浮かび上がらせる文章もあった。
だからこそ、作中人物による「すでに分かっていることを喩える必要はない」という趣旨の批判が面白い。
それは登場人物への批判であると同時に、作品そのものを読むための物差しにもなる。
そして、自分が小説を書くときにも使える。
その比喩は、文章を増やしているだけなのか。
それとも、世界を一つ増やしているのか。
比喩を書く前に、私はこの問いを覚えておきたい。
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