以前、村上春樹の文章は「音楽的だ」という評をどこかで聞いたことがある。
そのときの私は、正直よく分からなかった。
文章が音楽的とは、いったいどういうことなのだろう。
しかし小説を読み、作品の内容だけではなく、一文一文がどのように作られているのかを意識するようになった今では、この「音楽的」という表現はかなり的を射ているように思う。
難しいことを書いているのに、文章は難しくない
村上春樹の文章は読みやすい。
もちろん作品によって違いはあるが、一文が極端に入り組んでいるわけではなく、使われている言葉もそれほど難解ではない。
文章が一定の速度で前へ前へと流れていく。
この点では、たとえば大江健三郎の文章とはかなり違う。
大江の小説を読んでいると、文の構造そのものに立ち止まらされることがある。
「この主語はどこにつながっているのか」
「この修飾は何にかかっているのか」
と、一文の内部へ意識を引き戻される。
村上春樹には、それが比較的少ない。
すらすら読める。
それでいて、単調ではない。
なぜだろう。
傍点は文章の「アクセント」ではないか
そこで気になったのが、村上春樹がしばしば使う傍点である。
文章の流れの中で、ある言葉だけに傍点が置かれる。
もちろん傍点には「この言葉は重要です」と読者に知らせる働きもある。
しかし村上作品を読んでいると、それだけではないように感じる。
私はこれを、音楽におけるアクセントのように感じた。
文章は一定のリズムで進んでいる。
その途中で、一つの言葉だけがわずかに強く鳴る。
声に出して読むなら、そこだけ少し強く発音したり、わずかな間を置いたりするような感覚である。
文章の流れそのものは壊さない。
しかし、読者の耳には残る。
村上春樹が音楽について深い関心を持ってきたことと、こうした文章上の特徴を安易に因果関係で結ぶことはできない。
それでも、彼の文章を「音楽的」と感じる理由の一つとして、こうしたリズムとアクセントの存在は無視できないように思う。
文章は分かる。しかし小説は分からない
そして、ここからが村上春樹の面白いところである。
文章が分かりやすいからといって、小説まで分かりやすいわけではない。
むしろ、その二つは奇妙なくらい分離している。
文章そのものは、するすると頭に入ってくる。
ところが読み進めていると、
「あの場面はいったい何だったのだろう」
「あの人物にはどんな意味があったのだろう」
「あれは現実なのか、それとも何かの象徴なのか」
という問いが次々と残されていく。
しかも、その答えが必ずしも作品内で明示されるわけではない。
読者は文章を読むところではつまずかなかったのに、意味を考え始めた途端に立ち止まるのである。
これは面白い逆転だと思う。
文章では読者を止めない。意味のところで止める
たとえば難解な文章なら、一文ごとに読者を止めることができる。
しかし村上春樹は、必ずしもそうしない。
平明な言葉を使い、一定のリズムを保ち、ときには傍点というアクセントを置きながら、読者を先へ先へと運んでいく。
ところが、その流暢な文章の下に置かれているものは簡単ではない。
読むことはできる。
しかし、解釈しようとすると簡単には終わらない。
私はここに、村上春樹の文章を「音楽的」と感じる理由があるように思う。
音楽も、聴くために意味を逐語的に理解する必要はない。
まず流れに乗ることができる。
しかし聴き終わったあと、なぜあの部分が残っているのか、なぜあそこで感情が動いたのかを考え始めることがある。
村上春樹の小説にも、それと似た経験がある。
文章では読者を止めない。
意味のところで読者を止める。
文章は終わっているのに、読者の中ではまだ作品が終わっていない。
私にとって村上春樹の「音楽性」とは、単に文章の響きが美しいということではない。
流れるように読ませながら、解釈だけを読者の中に残していく。
その不思議な二重構造こそが、村上春樹の文章を「音楽的」と感じさせる理由の一つなのではないかと思う。
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