村上春樹の小説を読んでいると、ときどき不思議な瞬間があります。
物語を読んでいたはずなのに、突然、
「これは誰かによって書かれている文章なのだ」
ということを意識させられるのです。
『ノルウェイの森』を読んでいて、こんな一節に出会いました。
「文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ」(22頁)
この文章を読んだとき、私は村上春樹の処女作『風の歌を聴け』を思い出しました。
そこでも、完全な文章など存在しないという趣旨のことが語られています。
なぜ村上春樹は、小説を書きながら、わざわざ「文章は不完全なのだ」と読者に告げるのでしょうか。
私はこれを、村上春樹にとっての一種の「儀式」なのではないかと思いました。
小説の中に「書いている人」がいる
小説を読んでいると、私たちはしばしば語り手の存在を忘れます。
登場人物が歩く。
誰かと出会う。
恋をする。
別れる。
そうした出来事を追っているうちに、それが「誰かによって語られている」という当たり前の事実が透明になっていきます。
ところが村上春樹は、ときどきその透明な膜を破ります。
『風の歌を聴け』では、文章を書くことそのものについて語る。
『ノルウェイの森』でも、現在の「僕」が過去を思い出し、それを文章にしていることが前景化する。
つまり、
出来事そのもの
を読んでいると思っていた私たちの前に、
出来事を思い出し、それについて書いている人
が姿を現すのです。
ここには重要な違いがあります。
過去そのものと、過去について書かれた文章は同じではありません。
「文章」は記憶を入れる容器である
私は「文章という不完全な容器」という表現が面白いと思いました。
文章が「容器」なら、その中に盛られるものが記憶です。
ところが容器は不完全です。
そして、そこに入れる記憶の方も不完全です。
つまり、
過去
↓
記憶
↓
文章
↓
読者
という過程を経るたびに、私たちは「本当に起こったこと」から少しずつ離れていくことになります。
だから『ノルウェイの森』で語られる直子も、「過去に存在した直子そのもの」ではないのかもしれません。
現在の語り手が思い出すことのできる直子です。
記憶には欠落があります。
時間によって変形することもあります。
そして、その不完全な記憶を、さらに不完全な文章へ移し替えている。
そのことを語り手自身が知っているのです。
克明すぎる地図は役に立たない
この直前には、克明すぎる地図についての比喩も出てきます。
細部まで完璧に描こうとすればするほど、かえって地図として役に立たなくなることがある。
これは小説にも通じる話ではないでしょうか。
記憶のすべてを書こうとする。
風景のすべてを書く。
人物の感情をすべて説明する。
そうすれば「完全な小説」に近づくように思えます。
しかし実際には逆なのかもしれません。
以前から私は、小説における「説明しすぎ」について考えてきました。
人物が悲しんでいるとき、
「悲しかった」
「胸が痛んだ」
「寂しかった」
「一人になった気がした」
と克明に説明を重ねれば、その人物の心理を正確に伝えられるように思えます。
しかし、あまりに克明な地図が役に立たなくなるように、あまりに克明な心理描写もまた、読者が歩く余地を失わせることがあります。
不完全だからこそ、読者が入り込める。
これは文章の欠陥ではなく、小説という形式の一つの可能性なのだと思います。
書けないことを認めてから、書き始める
ここで『風の歌を聴け』と『ノルウェイの森』がつながってきます。
完全な文章は存在しない。
記憶も完全ではない。
文章という容器も完全ではない。
それでも書く。
私は村上春樹の作品に、ときどきこの手続きを感じます。
「これから書くものは完全ではありません」
と、一度自分自身に断ってから物語へ入っていく。
だから私は、それを村上春樹にとっての「儀式」と呼びたくなりました。
ただし、それは想像力を抑えるための儀式ではないのかもしれません。
むしろ逆です。
完全に書かなければならないと思えば、記憶の欠落も、突然の飛躍も、奇妙な比喩も許されなくなります。
しかし、
「そもそも完全には書けない」
と認めてしまえばどうでしょう。
そこから、
「それでも書く」
という自由が生まれます。
完全には書けない。
だから書くことを諦めるのではない。
完全には書けないこと自体を、小説の構造の中へ取り込んでしまう。
そう考えると、『風の歌を聴け』から『ノルウェイの森』まで、一本の線が見えてくるように思います。
不完全な容器だからこそ
小説を書くとき、つい「もっと正確に書かなければ」と考えてしまいます。
人物の心理をもっと説明する。
背景をもっと説明する。
出来事の意味をもっと説明する。
けれども、小説は現実の完全な地図ではありません。
そして記憶もまた、過去の完全な保存ではありません。
ならば、小説を書くということは、
不完全なものを完全にする作業ではなく、不完全なものを不完全なまま差し出す作業
なのかもしれません。
村上春樹は、ときどき物語の途中から顔を出す語り手を通して、そのことを読者に思い出させます。
「これは過去そのものではない」
「これは記憶である」
「そして、これは文章である」
そのためらいを隠さず、むしろ小説の内部に書き込んでから物語を始める。
完全には書けない。
その認識は、書くことを止める理由ではありません。
むしろそこから、小説を書くことが始まるのではないでしょうか。
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