村上春樹『ノルウェイの森』を読んでいて、キズキの自殺後の描写に少し引っかかりました。
最初に感じたのは、
「これほど大きな出来事なのに、その直後の扱いがずいぶん淡白だな」
ということでした。
しかし、読み進めていくうちに、少し考えが変わりました。
問題は、キズキの死を「重く描いていない」ことではない。
むしろ村上は、キズキの死に対して明確な反応を書いている。
では、私は何に引っかかったのでしょうか。
考えていくと、そこには18歳の「僕」と、約20年後に過去を振り返っている「僕」の混線があるように思えてきました。
重い出来事を、重く描く必要はない
そもそも、親友の自殺という重い出来事が起きたからといって、その後も重苦しい文章を書き続けなければならないわけではありません。
むしろ逆の方法もあります。
重いものに、あえて軽いものをぶつける。
悲惨な出来事の翌朝にも学校のチャイムは鳴る。
誰かがくだらない冗談を言う。
コンビニではいつも通り商品が並んでいる。
そうした日常の「軽さ」を置くことで、かえって失われたものの大きさが浮かび上がることがあります。
だから私が求めていたのは、
「もっと悲しそうにしてほしい」
ということではありません。
重要なのは、大きな出来事が、その後の小説世界にどのような作用を及ぼしたのかだと思います。
出来事の大きさと描写量は、比例する必要はない。
しかし、出来事には何らかの作用が必要なのではないでしょうか。
キズキの死は「処理されていない」のか
読み始めたとき、私はキズキの死が十分に処理されていないように感じました。
死のあとには、警察による事情聴取があり、新聞記事があり、教室には白い花が置かれます。
しかし物語は比較的早く先へ進んでいく。
そのため、
「作品はこの死をどう受け取ったのだろう」
という感覚が残りました。
ところが、その先まで読むと、村上はちゃんと一つの答えを用意していました。
「僕」はキズキの死を経験したあと、あらゆることを深刻に考えすぎず、物事と自分との間に距離を置こうとします。
そして死について考え続けた末、ひとつの認識へ至ります。
ここで物語は、具体的な「キズキの死」から、より普遍的な「生と死」の問題へ移っていきます。
つまり、キズキの死は放置されていたわけではありません。
個人的な喪失が、死についての観念へ変換されていた。
ここまでは理解できます。
それでも、まだ引っかかりました。
これは18歳の「僕」の思想なのか
重要だと思ったのが、次の一文です。
「そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ」(54頁)
ここではかなり明確です。
18歳の「僕」は、死についての考えを、完成された哲学的命題として持っていたわけではない。
まだ言葉になる以前の感覚として身体の中に抱えていた。
そう考えると、その前後に登場する整然とした死生観は、18歳の「僕」が当時そのまま考えていた文章というより、約20年後の語り手が、かつての感覚に言葉を与えたものだと読むことができます。
これは面白い構造です。
18歳の「僕」が経験する。
それを38歳の「僕」が思い出す。
そして、当時には言葉にならなかったものを、現在の言葉によって再構成する。
ところが、ここで少し問題が生じます。
二人の「僕」が混ざってしまう
同じ箇所には、
「深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ」(55頁)
という、18歳当時の認識として読める文章があります。
その一方で、
「それは今にして思えば確かに奇妙な日々だった」
とも書かれます。
こちらは明らかに、現在の「僕」が過去を振り返っている言葉です。
つまり文章の中では、
18歳の経験
↓
現在の語り手による言語化
↓
18歳当時の認識
↓
現在からの回顧
という移動が起こっています。
もちろん、回想形式の小説で現在と過去の視点が行き来すること自体は珍しくありません。
むしろ、それこそが回想小説の面白さになることもあります。
しかし、この場面では少し事情が違うように感じました。
なぜなら、ここで扱われているのが、
「死とは何か」
という作品の根幹に関わる認識だからです。
「誰が考えたのか」で意味が変わる
もしこれが18歳の「僕」がキズキの死によって到達した思想なら、それは人物造形になります。
親友を突然失った青年が、感情を処理しきれないまま、生と死について考え始める。
多少観念的であったとしても、それは18歳の青年の精神の動きとして読むことができます。
しかし、38歳の「僕」が20年後に整理した思想なら意味が変わります。
それは、
過去の出来事を現在からどう意味づけ直しているのか
という、記憶の物語になります。
さらに、もし読者に「作者自身の死生観」として響いてしまえば、今度は小説よりもエッセイに近づいて見える。
同じ文章なのに、
誰の言葉なのか。
いつ獲得された認識なのか。
によって、その文章の小説的な役割が変わってしまうのです。
「不完全な記憶」を言葉にするということ
これは『ノルウェイの森』の冒頭にある、「文章という不完全な容器」(22頁)という発想ともつながっているように思います。
18歳の「僕」にとって、それはまだ「空気のかたまり」だった。
それを約20年後の「僕」が文章にしようとしている。
つまり、
経験 → 記憶 → 言語化
という変換が起きています。
本来なら、この変換によって生じる「ずれ」そのものが面白いはずです。
18歳の自分には分からなかった。
しかし今なら、こう言える。
あるいは逆に、今どれほど言葉を尽くしても、18歳の自分が感じていたものには戻れない。
そうした二つの時間の亀裂が見えれば、回想という形式そのものが作品の厚みになります。
ところが今回の箇所では、18歳の「僕」と現在の「僕」があまりに滑らかにつながっているため、どこまでが当時の感覚で、どこからが現在による解釈なのかが見えにくくなっています。
そこに私は引っかかったのだと思います。
観念的であることが問題なのではない
最初、私はこの部分を読んで、
「少し観念的すぎるのではないか」
と思いました。
しかし、もう少し正確に言えば、問題は観念そのものではありません。
その観念を誰が、いつ獲得したのか。
そこが曖昧なのです。
キズキの自殺に対する小説的な反応は、ちゃんと存在している。
18歳の「僕」が死を言葉以前のものとして身体に抱え、それによって世界の見え方を変えていく。
ここには十分に小説的なものがあります。
ただ、それを20年後の「僕」が語るとき、現在の認識と過去の認識が重なりすぎる。
回想小説では、「昔の私」と「語っている私」は同じ人物でありながら、同じ人間ではありません。
だからこそ私は小説を読むとき、
「これは誰の言葉なのだろう」
と立ち止まってみたいと思います。
過去の人物が感じたことなのか。
現在の語り手が意味づけたことなのか。
その境界線を見るだけで、同じ文章がまったく違って見えてくることがあります。
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