村上春樹『ノルウェイの森』を読んでいて、少し引っかかった描写がありました。
ワタナベが、直子のいる「阿美寮」を訪れる場面(文庫版191頁)です。
山道を進んだ先に門があり、そのそばには門衛小屋があります。
しかし、門番の姿はありません。
そこでワタナベは、門衛小屋に残されたものを観察します。
灰皿の吸い殻。
飲みかけのお茶。
トランジスタ・ラジオ。
そして、時を刻む壁時計。
これらから、つい先ほどまで人がいたことが示されます。
描写として読むと、なかなか巧みです。
ところが私は、ここで別のことが気になりました。
ワタナベは、いったいどこからそれを見ているのでしょうか。
「見えるもの」と「見えにくいもの」が混ざっている
前後を読むと、ワタナベが門衛小屋の近くまで来ていることは分かります。
門番が戻るのを待ち、戻ってこないため、近くにあるベルのようなものを押しています。
したがって、
灰皿
ラジオ
壁時計
などが見えること自体は、それほど不自然ではありません。
小屋の入口や窓から中が見える構造なら、十分に認識できるでしょう。
しかし、一つだけ少し気になります。
湯のみの中に、飲みかけのお茶が残っていることまで分かるでしょうか。
湯のみそのものなら遠くからでも見えます。
しかし、「飲みかけ」であることを知るためには、中に残っているお茶を見る必要があります。
ある程度近づき、場合によっては中を覗き込める角度にいなければなりません。
ところが、この場面ではワタナベが門衛小屋の中に入ったとは書かれていません。
もちろん、入口や窓の構造によっては外から見えた可能性もあります。
したがって、これを「視点の破綻」とまで言うのは行き過ぎでしょう。
ただ、ここでは一瞬だけ、
ワタナベの身体は小屋の外にいるのに、語りのカメラだけが小屋の中へ一歩入った
ような感触があります。
それでも、この描写には意味がある
ただし、私はこれを単純な「ミス」として取り上げたいわけではありません。
むしろ興味深いのは、なぜこれほど細かなものが描かれているのかということです。
この場面には門番本人がいません。
代わりに残されているのが、吸い殻や飲みかけのお茶です。
つまり、
人間を描かずに、人間の存在を描いている。
「門番はついさっきまでここにいたようだ」
と説明するだけでも意味は通じます。
しかし、それを説明する代わりに、吸い殻やお茶という具体物を置く。
すると読者自身が、
「さっきまで誰かがここにいたんだな」
と感じることができます。
これは小説を書くうえで参考になる技法だと思います。
「不在」を具体物で描く
たとえば、誰かが突然いなくなった部屋を書くとします。
「彼がいなくなったので、部屋は寂しかった」
と書くこともできます。
しかし、
テーブルには半分まで飲んだコーヒーが残っている。
椅子だけが少し後ろに引かれている。
そんな具体物を置けば、「寂しい」と書かなくても、人がいた痕跡を描くことができます。
『ノルウェイの森』の門衛小屋も、それに近い働きをしています。
特に面白いのは時計です。
人はいない。
しかし時計だけは動いている。
人間がその場所から消えても、時間は「コツコツ」と進んでいく。
少なくともこの場面では、具体物の配置によって「不在」がかなり鮮明になっています。
描写がうまいことと、視点が成立していることは別問題
ここから、創作について一つ考えました。
小説を読むと、
「きれいな描写だ」
「情景がよく見える」
という文章があります。
しかし、それとは別に確認したほうがよいことがあります。
その人物は、本当にそれを見ることができるのか。
一人称小説なら特に重要です。
主人公が背中を向けている相手の表情を描いていないか。
遠くにいる人物の小さな動きを正確に認識していないか。
初めて入った部屋なのに、見えない場所にあるものまで知っていないか。
文章の解像度を上げれば上げるほど、この問題は起こりやすくなります。
細かく描くこと自体が悪いのではありません。
描写の解像度が、語り手の知覚の解像度を追い越していないか。
そこを確認する必要があるのでしょう。
粗探しではなく、「誰が、どこから見ているのか」
今回の門衛小屋について、私は明確な誤りだとは考えていません。
ワタナベは小屋のすぐ近くにいますし、外から内部を確認できた可能性も十分あります。
むしろ、人の不在を具体物によって示すという点では、よく機能している描写だと思います。
それでも「飲みかけのお茶」という小さな一点から、
この情報を、語り手はどこから手に入れたのだろう?
という問いが生まれました。
小説を読むとき、私はこういうところが気になります。
「美しい文章か」「分かりやすい文章か」だけではなく、
誰が見ているのか。
どこから見ているのか。
その人物は、そこまで知ることができるのか。
視点とは、単に「一人称か三人称か」を決めれば終わるものではありません。
一文一文の情報にも、視点があります。
そして、その小さな整合性の積み重ねが、小説世界を「そこに本当に存在する場所」にしていくのだと思います。
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