小説には、少し不思議な逆説があります。
現実的に書こうとすればするほど、「これは作り物だ」と感じることがある。
ところが反対に、明らかな虚構を重ねているのに、
「ありそうだ」
「こういう人、いそうだ」
「なんとなく分かる」
と思わせる作品があります。
村上春樹『ノルウェイの森』を読んでいて、そのことを考えました。
そしてふと、Instagramで見かけた「赤ちゃんがしゃべるAI動画」を思い出しました。
小説とAI動画。
まったく違うものなのに、そこで起きていることは案外似ているのかもしれません。
見たことのない場所なのに「ありそうだ」
『ノルウェイの森』で、ワタナベは直子が療養している「阿美寮」を訪れます。
そこで描かれる建物は少し奇妙です。
木造の二階建て。左右が対称になっている。窓がたくさん並んでいる。前には芝生があり、曲がった道が通っている。(文庫版208‐209頁)
さらにワタナベは、その建物から「ウォルト・ディズニーがムンクの絵をもとに」作った「漫画映画」(208‐209頁)のような奇妙さを感じます。
もちろん、阿美寮は小説の中の場所です。
私はそこへ行ったことがありません。
それどころか、「実際の療養施設がこんな建物なのか」と事実確認をしながら読んでいるわけでもありません。
それなのに、
「ああ、こういう場所はありそうだ」
という感覚が生まれます。
これは何なのでしょう。
「既視感」ともちょっと違う
最初は「既視感」という言葉を考えました。
しかし、少し違います。
既視感なら、「以前どこかで見たような気がする」という感覚でしょう。
阿美寮について私が感じたのは、
見たことがあるのではなく、見たことがないのに存在できそうだという感覚
でした。
木造建築も知っている。
芝生も知っている。
左右対称の建物も知っている。
奇妙な映画の雰囲気もなんとなく分かる。
一つ一つは既知のものです。
ところが、それらが組み合わされて作られた阿美寮そのものは未知です。
つまり、
既知の断片+既知の断片+既知の断片
=見たことのない「現実」
が立ち上がっている。
広い意味では「もっともらしさ」「真実らしさ」と呼べるものなのでしょう。
しかし創作する側から見ると、もう少し面白いことが起きているように思います。
AIで作られた「しゃべる赤ちゃん」
Instagramを見ていると、AIで作られた赤ちゃんの動画が流れてくることがあります。
赤ちゃんが、大人のような言葉をしゃべる。
もちろん虚構です。
現実の赤ちゃんが、その場でそんなことを言ったわけではありません。
それなのに動画を見ていると、ときどき笑ってしまいます。
なぜか。
「ああ、なんかこんなこと言いそう」
と思うからです。
ここでも重要なのは、事実ではありません。
実際にその赤ちゃんがそう発言したかどうかではない。
表情、声、間、身振り、言葉の内容などが組み合わされることで、
「もし赤ちゃんがしゃべれたら、こんなことを思っているのかもしれない」
という妙な現実感が生まれる。
完全な虚構なのに、そこに人間についての「それっぽさ」がある。
阿美寮を読んだときに感じたものと、どこか似ています。
現実を写せばリアルになる、とは限らない
ここで不思議な非対称性があります。
小説を書くとき、
「現実的でなければならない」
と考えすぎることがあります。
実際の病院はどうなっているのか。
実際の警察はどう動くのか。
実際の人間ならどう話すのか。
もちろん、調べることは大切です。
明らかな制度上の誤りがあれば、読者がそこで引っかかることもあります。
しかし、現実との一致を一つ一つ確認していけば、必ず小説がリアルになるのでしょうか。
どうも、そう単純ではない気がします。
あまりに「現実通り」を意識すると、
作者が現実を再現しようとしている手つき
そのものが見えてしまうことがあります。
すると、かえって作り物らしくなる。
一方、阿美寮は最初から虚構です。
AIの赤ちゃん動画も虚構です。
それなのに、虚構の細部が一定の秩序で組み合わされると、突然、
「これはあり得る」
という感覚が生まれます。
「事実」と「リアリティ」は同じではない
ここで私は、事実性とリアリティを分けて考えたほうがよいのではないかと思いました。
事実性とは、
「現実世界でも、本当にそうなのか」
という問題です。
一方、小説におけるリアリティは、
「この作品世界の中で、本当にそうであるように感じられるか」
という問題です。
両者は重なります。
しかし、同じではありません。
事実ではないのにリアルなものがある。
事実に忠実なのに、なぜか作り物めいて見えるものもある。
だから小説におけるリアリティは、現実との距離をゼロにすれば最大になるような単純なものではないのでしょう。
虚構の細部が、現実を作る
これは創作するときにも重要だと思います。
「悲しい人物」をリアルにしたければ、
「彼は深く悲しんでいた」
と何度も説明する必要はありません。
朝起きたのにカーテンを開けない。
冷蔵庫から昨日買ったプリンを出して、また戻す。
二人分だったマグカップの片方だけを棚の奥にしまう。
すべて作者が作った虚構です。
しかし、その虚構の細部が適切に積み重なると、
そこに本当に悲しんでいる人間がいるように感じられる。
現実そのものを持ってくる必要はない。
むしろ作者が作った小さな嘘を丁寧に積み重ねることで、読者の中に一つの現実を作ることができる。
創作にある、不思議な非対称性
そう考えると、創作には面白い非対称性があります。
現実を写そうとしすぎると、虚構が見えてくる。
ところが、
虚構を十分に積み重ねると、そこから現実が立ち上がってくる。
『ノルウェイの森』の阿美寮も、AIでしゃべる赤ちゃんも、もちろん同じ種類の作品ではありません。
それでも私が両方に「ありそうだ」と感じたところには、共通する何かがあります。
人間は、すべてが事実だからリアルだと感じるのではない。
自分がすでに知っている感覚や経験の断片が、うまく組み合わされたとき、
見たことのないものにまで「分かる」と感じることがある。
だから小説を書くときに必要なのは、現実をそのまま複製することではないのかもしれません。
現実の断片を材料にして、
まだ存在していない現実を、読者の中に立ち上げること。
虚構とは、現実から離れるためだけのものではない。
ときには虚構を通ったほうが、現実へ近づける。
創作の面白さは、そんな逆説の中にもあるのだと思います。
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