村上春樹『ノルウェイの森』を読んでいて、少し引っかかった場面がありました。
「僕」が眠れない夜、ナップザックから懐中電灯とトーマス・マンの『魔の山』を取り出して読む場面です。(36頁)
もちろん、小説の登場人物が別の小説を読むこと自体は珍しいことではありません。
しかし、ここで『魔の山』が選ばれていることには、少し意味がありそうです。
そして私は同時に、
「ここまで先行作品を名指ししてしまっていいのだろうか」
とも思いました。
『魔の山』と『ノルウェイの森』には重なるものがある
トーマス・マンの『魔の山』では、主人公ハンス・カストルプがスイスの山中にある療養所を訪れます。
そこは日常社会から隔てられた場所です。
病気と健康、生と死、性愛、思想、そして独特の時間。
山の下にある日常世界とは異なる原理によって、療養所の時間は流れていきます。
一方、『ノルウェイの森』にも阿美寮があります。
直子が暮らしている、山中の療養施設です。
もちろん二つの作品は同じではありません。
しかし、
青年/山/療養施設/日常社会からの隔絶/病/死/性愛/時間
と並べてみると、両作品のあいだにはいくつもの共鳴点があります。
だからこそ、『ノルウェイの森』の中で『魔の山』という書名が出てくると、私はどうしても二つを重ねて読みたくなります。
一冊の本が、作品の「座標」を示してしまう
これは非常に効率のよい方法でもあります。
作者が、
「阿美寮は単なる療養施設ではありません」
「ここは日常社会とは異なる時間が流れる場所です」
などと説明する必要はありません。
登場人物の荷物の中に『魔の山』を一冊入れておく。
それだけで、その作品を知っている読者には、
もしかすると、この療養施設は『魔の山』の系譜に置かれているのではないか。
という読みが生まれます。
文学作品そのものを、一種の小道具として使っているわけです。
うまいやり方だと思います。
しかし、私はここに少しだけ危うさも感じました。
「本家」が読者の頭の中に現れてしまう
『魔の山』という名前がなければ、私は阿美寮をまず、
『ノルウェイの森』固有の場所
として読んでいたでしょう。
山奥にある。
日常から隔離されている。
独特の共同生活がある。
病を抱えた人々が暮らしている。
そうした具体が積み重なることによって、阿美寮という場所が私の中に作られていく。
そして読者によっては、読み進めながら、
「なんだか『魔の山』に似ているな」
と気づくかもしれません。
ところが、作品自身が『魔の山』という名前を出すと、この順序が変わります。
それまで、
阿美寮 → ?
だったものに、
阿美寮 → 『魔の山』
という矢印が一本引かれる。
読者が自分で発見するはずだったかもしれない関係を、作品の側から先に提示してしまうわけです。
すると阿美寮を読んでいるのに、その背後に『魔の山』が見えてくる。
私はここに、少しだけ「小細工」のようなものを感じました。
「説明しすぎる文章」と似ている
これは、心理描写における「説明しすぎ」と意外によく似ています。
たとえば人物が黙って部屋を出ていったとします。
読者は、
「怒ったのだろうか」
「悲しかったのだろうか」
「これ以上話しても無駄だと思ったのだろうか」
と考えることができます。
ところが、
彼は怒っていたので、黙って部屋を出た。
と書けば、一つの因果が確定します。
以前私は、これを「因果を閉じる」と考えました。
先行作品の名指しにも、少し似たところがあるのではないでしょうか。
山中の療養所という具体だけを置けば、
この場所は何なのだろう。
という問いが残ります。
しかし『魔の山』を置くことで、
これは『魔の山』的な場所としても読める。
という強力な解釈の道が最初から敷かれる。
つまり引用や作品名も、場合によっては意味を閉じる方向に働くのです。
では、先行作品を出さないほうがいいのか
そう単純でもないと思います。
作中で先行作品を名指しすることには、明確な効果があります。
「この作品は、この文学的系譜と対話しています」
と読者に知らせることができる。
先行作品を知っている読者なら、二つを比較することで、単独で読む場合には見えなかったものまで見えてくるでしょう。
これはいわゆるインターテクスチュアリティの面白さでもあります。
問題は、
先行作品との関係を、どこまで作者自身が見せるのか
なのだと思います。
読者に発見させるか、作者が矢印を引くか
創作する側から考えると、これは意外に難しい問題です。
自分が強く影響を受けた小説がある。
その作品を意識した場所や人物や構造を作った。
では、その先行作品の名前まで自作に登場させるべきでしょうか。
名前を出せば、作品の系譜は伝わりやすくなる。
しかし同時に、読者はその瞬間から二作品を比較し始めます。
自分の作品だけを見ていた読者の背後に、突然「本家」が立ち上がる。
だから私は、
先行作品を名指しすることは、単なる引用ではなく、読者の読み方そのものを操作する行為である
と考えたほうがよいのではないかと思います。
名前を出すか、出さないか。
正解がある問題ではありません。
ただ、
読者自身に関係を発見してもらいたいのか。
それとも、作品の側からその関係を提示したいのか。
この二つは区別したほうがよさそうです。
『ノルウェイの森』に置かれた一冊の『魔の山』。
私はそこに巧さを感じると同時に、少しだけ「そこまで言ってしまうのか」とも感じました。
その違和感から逆に、小説の中で別の作品名を出すことの強さと危うさが見えてきたように思います。
小説では、たった一つの固有名詞や小道具によって、読者の解釈が大きく動くことがあります。
私はココナラの小説講評でも、「何が書かれているか」だけでなく、その一文を置いたことで、読者の読みがどの方向へ動くのかまで考えて作品を読みます。
作者が意図した読みと、実際に文章から生まれる読み。そのあいだを一緒に確かめたい方は、小説講評サービスをご覧ください。