「どうしてかわからない」が、かえって理由を見せる――『ノルウェイの森』から考える「因果を閉じない」文章

「どうしてかわからない」が、かえって理由を見せる――『ノルウェイの森』から考える「因果を閉じない」文章

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村上春樹『ノルウェイの森』を読んでいて、興味深い一文に出会いました。

直子のいる療養施設「阿美寮」を訪れたワタナベが、一人で部屋に横になっている場面です。

そこで彼は、昔の出来事や情景を次々と思い出します。

しかし、その直前にこんな留保を置きます。

「どうしてかはわからないけれど」(212頁)

一見すると、何でもない言葉です。

ところが私は、この一言によって、むしろワタナベが過去を思い出す「理由」が強く感じられるようになっているのではないかと思いました。

 「どうしてかわからない」の表面上の意味


文字どおりに読めば、意味は単純です。

ワタナベ自身にも、なぜ昔のことが次々と頭に浮かんでくるのか分からない。

つまり、原因不明の自然な想起として語られています。

しかし、読者はすでに状況を知っています。

ワタナベは直子に会うため、療養施設までやってきた。

そして直子という存在は、亡くなったキズキや、三人で過ごした過去と切り離せません。

その場所で一人になり、ソファーに横たわる。

そして昔の出来事が次々と浮かんでくる。

すると読者としては、

「いや、なんとなく理由は分かる」

と思ってしまいます。

ここに、語り手と読者のあいだの小さなズレがあります。

語り手:「どうしてかはわからない」  
読者:「でも、この場所に来たからではないか」

このズレが面白いのです。

理由を書かなかったから、理由を考えてしまう


仮に、この場面が次のように書かれていたらどうでしょう。

「直子のいる療養施設に来たことで、僕はキズキや昔の日々を思い出した」

非常に分かりやすい文章です。

しかし、分かりやすすぎます。

療養施設に来た。

直子がいる。

直子はキズキと結びついている。

だから昔を思い出した。

原因と結果が一本の線でつながります。

因果が閉じてしまう。

読者は、それ以上「なぜだろう」と考える必要がありません。

ところが『ノルウェイの森』では、「どうしてかわからない」と書かれています。

作者は最後の一本をつながない。

その代わり、

直子
療養施設
一人で横たわるワタナベ
次々と浮かぶ過去

という材料だけを置いています。

すると、つながなかったはずの線を読者自身がつなぎ始めます。

「因果がない」と「因果を閉じない」は違う


ここは、小説を書くうえで重要な違いだと思います。

因果関係を書かなければ、何でも文学的になるわけではありません。

何の準備もなく人物が突然泣き出したら、読者には単に唐突に見えるかもしれません。

つまり、

「因果がない」ことと「因果を閉じない」ことは違う。

後者では、原因になり得るものがすでに作品の中に配置されています。

ただし、

「だから、この感情が生まれた」

という最後の説明だけを作者が引き受けない。

読者がそこを補完できる余地を残します。

『ノルウェイの森』の「どうしてかわからない」は、その働きをしているように思えます。

本人には分からない。でも読者には見える


さらに面白いのは、ワタナベが嘘をついていると考える必要がないことです。

彼自身には、本当に理由が分からないのかもしれません。

人間は、自分の感情や記憶が動き出した理由を、いつも正確に理解しているわけではありません。

本人には言語化できない。

しかし、その人物を外側から読んでいる読者には、

「たぶん、これが関係しているのだろう」

と見える。

つまり、

登場人物の自己理解より、作品の構造のほうが多くを語っている。

「私はこういう理由で昔を思い出しました」と本人に説明させるよりも、ずっと人物が立体的になります。

人間は、自分についてすべてを知っているわけではないからです。

「含意」は、文章だけから生まれるとは限らない

こうした現象は「含意」と呼ぶこともできるでしょう。

ただし、単語一つの意味というより、ここでは場面全体の配置から意味が立ち上がっています。

書かれているのは、

「どうしてかわからない」

しかし読者が受け取るものは、

「直子のいる場所まで来たことが、過去を呼び起こしているのではないか」

文章が直接言っていない意味を、読者が状況から補っています。

だから小説では、

何を書くかだけではなく、何を書かずに周囲へ配置するか

も重要になるのでしょう。

数学では「閉じる」ことが美しい。しかし小説では?


私は数学も好きなのですが、ここで少し別のことを考えました。

数学、とりわけ代数学では、「閉性」は重要な考え方です。

ある集合の要素に決められた演算を行っても、その結果が再びその集合の中に収まる。

世界が閉じているからこそ、その内部で安定して議論できます。

ところが文学では、ときとして逆のことが起こります。

意味を完全に閉じる。

心理を完全に説明する。

原因と結果を完全につなぐ。

すると作品は分かりやすくなる一方で、読者が入り込む場所がなくなってしまう。

数学では、

閉じているから操作できる。

しかし文学では、

閉じていないから読者が操作できる。

そんな反転があるように思います。

もちろん、小説のすべてを曖昧にすればよいという話ではありません。

必要なのは、無秩序ではない。

読者がたどれる材料を十分に置きながら、最後の解釈だけを一つに決めない。

そこに「余白」と呼ばれているものの一つの正体があるのかもしれません。

説明しないことは、情報を減らすことではない


私は以前、「説明しすぎない」ということを、単純に文章を削ることだと考えていました。

しかし、少し違うのかもしれません。

必要な材料はむしろ置く。

場所を置く。

人物関係を置く。

行動を置く。

身体感覚を置く。

過去の出来事を置く。

そして最後に、

「だからこの人物はこう感じた」

だけを書かない。

すると読者の中で、それらの情報が結びつき始めます。

『ノルウェイの森』の「どうしてかわからない」という短い留保から、私はそんなことを考えました。

作者が因果を書かなかったから、因果が消えたのではありません。

むしろ、

書かれなかった因果を、読者が探し始める。

作品が終わっても意味作用が終わらない文章とは、案外こういうものなのかもしれません。

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