村上春樹『ノルウェイの森』の第3章の終わりに、蛍が登場します。
かなりの行数を使って描かれる印象的な場面です。
しかも、その直前には直子から手紙が届いている。
直子は体調を崩し、大学を休学して療養施設へ入ることをワタナベに伝えます。
そのあとに蛍が現れる。
こうして並べてみると、
「この蛍は直子を象徴しているのではないか」
と読みたくなります。
私もそう読みました。
しかし、ここで一度立ち止まりたいと思います。
「そう読める」と「作品がそう読ませている」は違う
小説の読み方は自由です。
一つの作品から『こころ』を連想してもいいし、聖書を連想してもいい。
自分自身の経験を重ねてもいい。
しかし、私が小説を読むとき、とくに講評するときに重視しているのは、もう少し限定された読み方です。
それは、
その読みには、作品の構造上の根拠があるのか。
ということです。
読者が自由に連想したものと、文章の配置や反復、視点、因果関係などによって作品そのものが誘導している読みとは、分けて考えたい。
その意味では「蛍=直子」という読みについても慎重でありたいと思います。
では、実際に作品の構造を追ってみます。
直子が遠ざかった直後に、蛍が現れる
まず重要なのは配置です。
直子はワタナベから離れ、療養生活へ入ります。
その直後、ワタナベは同室の「突撃隊」から蛍をもらいます。
蛍はインスタントコーヒーの瓶に入れられている。
明るいうちは、それが本当に蛍なのかさえワタナベにはよく分かりません。
ところが暗くなると、瓶の底で小さな光を放っている。
ここには直子との重なりを感じます。
ワタナベにとって直子もまた、どこかつかみきれない存在でした。
そして直子自身も、これまでの日常から切り離された場所へ移ろうとしている。
瓶の中に置かれた蛍と、療養施設へ向かった直子。
ここまでなら偶然の類似とも考えられます。
しかし、その後の展開を見ると、対応関係はもう少し強くなります。
「最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた」(文庫版97頁)
ワタナベは蛍を見ながら、以前蛍を見たのはいつだったのかと考えます。
ここで重要なのは、蛍が単なる現在の風景から、失われたものを想起させる存在へ変わっていることです。
そして蛍はやがて瓶から放たれます。
しかし、すぐに勢いよく飛び去るわけではない。
弱い光を放ちながらそこにいる。
ワタナベは待ちます。
そして最後には、闇の中に消えていった小さな光へ何度も手を伸ばす。
ところが触れることができない。
光はいつも、指先よりほんの少し先にある。
ここまで来ると、
直子 → 蛍
という読みには、かなりの構造的な根拠が生まれてくるように思います。
「弱い光」よりも「届かない光」
ただ、私は蛍を単純に、
「弱々しい直子の象徴」
とするだけでは少し足りないように思います。
重要なのは光の弱さだけではありません。
距離があります。
見えている。
手を伸ばす。
けれども届かない。
これは、それまでのワタナベと直子の関係そのものと重なります。
二人は一緒に歩きます。
話をします。
そして身体まで重ねます。
身体的な距離だけを考えれば、これ以上近づくことはできないところまで近づいた。
それでもワタナベは、直子の内側へ入ることができない。
だとすれば蛍は、「直子という人物」そのものというより、
ワタナベから直子へ伸びる、しかし最後まで埋まらない距離
を映像化したもの、と考えたほうがよいのかもしれません。
では、瓶は療養施設なのか
ここから先は、さらに慎重でありたいところです。
蛍は瓶の中に入っています。
そして直子は療養施設へ入ります。
そのため、
瓶=療養施設
という対応も考えられます。
閉じられた空間の内部にいる小さな光。
確かに魅力的な読みです。
しかし、「インスタントコーヒーの瓶」であることまで意味づけて、
インスタント=人工的・即席的な療養施設
などと読むところまで行けば、現段階では作品から少し離れすぎてしまうでしょう。
その後の作品で同じ性質が反復されるのであれば別です。
しかし、そうでなければ、それは作品が要求している読みではなく、読者が付け加えた意味かもしれません。
どこまで読むのか。
どこから読みすぎになるのか。
象徴を読む面白さは、まさにこの境界にあるように思います。
「井戸」と「蛍」は逆向きになっている
そして、ここで思い出したいのが、少し前に直子が語った「井戸」です。
井戸の中には濃密な暗黒がある。
もし落ちれば、叫んでも誰にも声が届かない。
そのはるか上には、小さな光が見える。
この場面を直子の心理と重ねるなら、
暗闇の中にいる直子から、遠くの光へ手が届かない
という構図になります。
ところが蛍では、それが反転します。
暗闇の中に小さな光がある。
そして今度は、ワタナベがその光へ手を伸ばす。
しかし届かない。
つまり、
井戸では、直子から外の世界へ届かない。
蛍では、ワタナベから直子へ届かない。
そう読むことができます。
この対応まで含めると、「蛍=直子」という単純な象徴よりも、もう少し大きな構造が見えてきます。
それは、
人と人とのあいだにある、どうしても越えられない距離
です。
村上春樹は、蛍に何を仮託したのだろう
もちろん、これが唯一の正解だとは思いません。
蛍は直子そのものなのかもしれない。
直子との記憶なのかもしれない。
あるいは、失われつつあるもの、孤独、希望、生命そのものと読むこともできるでしょう。
ただ、作品の構造だけを追っていくと、
光がある。
相手が見えている。
手を伸ばす。
それでも届かない。
という形が残ります。
井戸では、直子の側から世界へ。
蛍では、ワタナベの側から直子へ。
二つの場面は方向こそ逆ですが、ともに「届かない」という構造を持っています。
村上春樹は、蛍という小さな光に何を仮託したのでしょうか。
私は少なくとも、直子という一人の女性だけではなく、ワタナベと直子のあいだに横たわる距離そのものが、あの暗闇の中で光っているように感じました。
そして、ここから先をどこまで読むのか。
それを決めるのは読者です。
ただし、作品について語るときには、
「私はそう連想した」のか。
それとも「作品がそう読ませる構造になっている」のか。
その二つを区別しておきたいと思います。
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