村上春樹の小説を読んでいると、音楽がよく出てきます。
ジャズ、クラシック、ロック。
単なるBGMではなく、演奏者や録音にまで話が及ぶことも珍しくありません。
『海辺のカフカ』を読んでいて、私はふと気になりました。
この音楽を聴いているのは、本当に「田村カフカ」なのだろうか。
それとも、その背後から村上春樹自身の音楽的嗜好が顔をのぞかせているのでしょうか。
田村カフカは「15歳」である
ここは事実を確認しておきましょう。
『海辺のカフカ』の主人公・田村カフカは15歳です。
新潮社の公式紹介にも、15歳になった少年が家を出て旅に出る物語であることが明記されています。
つまり、私たちが読んでいる「僕」は、大人になった人物が15歳を回想しているという設定ではありません。
物語の中心にいるのは15歳の少年です。
ところが、この少年の周囲には実に多彩な音楽が流れています。
カフカ少年が聴く音楽として、プリンス、ジョン・コルトレーン、レディオヘッドなどが挙げられています。
資料によれば、その背景には図書館からCDを借り、さまざまな音楽を聴いてきたという設定があります。
だから、
「15歳なのに、こんな音楽を知っているのはおかしい」
とただちに結論づけることはできません。
15歳でコルトレーンを聴く少年は、もちろん存在し得ます。
問題は年齢そのものではありません。
「珍しい人物」と「作者が透けて見える人物」は違う
小説を書くとき、珍しい人物を登場させてはいけない理由などありません。
15歳でジャズを聴く。
古典文学を読む。
哲学について考える。
そんな少年がいてもいい。
だから人物造形を考えるとき、
「現実の平均的な15歳がそうするか」
だけを基準にするのは危険です。
問うべきなのは、
「この15歳がそうすることを、作品は成立させているか」
ではないでしょうか。
『海辺のカフカ』では、図書館からさまざまなCDを借りて聴くという経路が用意されています。
これは重要です。
単に作者の好きな音楽を少年に与えているだけではなく、少年がその音楽に出会える環境を、作品内部に一応用意しているからです。
それでも残る「プリンス問題」
ところが面白いことに、同じような違和感を持った音楽評論家もいます。
『村上春樹の100曲』の編者である栗原裕一郎は、『海辺のカフカ』で15歳の少年がレディオヘッドを聴くことについては非常にふさわしいとしながら、同時にプリンスを聴いていることには疑問を呈しています。
そして、村上作品では人物の年齢設定が若くなっても、音楽をはじめとする趣味嗜好に従来の村上作品らしさが残る場合がある、と指摘しています。
これは興味深い問題です。
レディオヘッドなら「2000年前後の15歳」という時代性と人物像が自然に結びつく。
ところが別の音楽になると、
「これは少年が選んだ音楽なのか。それとも作者が選んだ音楽なのか」
という疑問が生じる。
もちろん、それだけで人物造形の失敗とは言えません。
しかし、作者と人物との境界を考える材料にはなります。
作者の知識と、登場人物の知識は違う
ここで、小説を書く側から考えてみます。
作者がジャズについて100知っている。
だからといって、登場人物にも100を語らせてよいとは限りません。
登場人物が10しか知らない人物として設定されているなら、作者は残り90を知っていても、それを文章の外側に置かなければならないことがあります。
逆に、その人物が100を知っているだけの経歴が作品内に用意されているなら、存分に語らせればいい。
つまり、
作者が詳しすぎることは問題ではない。
登場人物が「理由なく」詳しすぎるときに問題が生じる。
ここを分けて考える必要があります。
なお、『海辺のカフカ』でシューベルトのピアノ・ソナタについてかなり専門的な話をする場面がありますが、そこを語っているのはカフカ少年ではなく大島さんです。
神奈川県立図書館の資料でも、その場面が確認できます。
だから、「カフカ少年自身がクラシックの演奏論まで自在に展開する」と理解するのは正確ではありません。
この区別は大切でしょう。
「作者が好きだから」は批評として十分ではない
村上春樹が音楽に深い関心を持つ作家であることはよく知られています。
実際、『海辺のカフカ』にはシューベルトだけでなく、ベートーヴェンの「大公トリオ」なども重要な音楽として登場します。
しかし、
「村上春樹は音楽好きだ」
↓
「だから登場人物に作者の趣味を押しつけている」
と結論づけるのは早すぎます。
これは作者についての情報から作品を裁いてしまうからです。
私が小説を読むとき、もっと見たいのは作品内部の構造です。
田村カフカは、なぜこの音楽を知っているのか。
どこで出会ったのか。
その嗜好は、それまで描かれてきた人物像とつながっているのか。
そして、その音楽は物語の中で何をしているのか。
そこまで見たうえで初めて、
「この音楽は田村カフカのものとして聞こえる」
あるいは、
「ここでは人物の向こうから作者の顔が少し見える」
と言えるのではないでしょうか。
人物を「作りすぎる」とは何だろう
私は最初、『海辺のカフカ』を読みながら、
15歳の少年としては、音楽的な造形を作りすぎているのではないか
と感じました。
しかし調べてみると、その違和感は少し修正する必要がありました。
田村カフカは単純な「レコード通の15歳」として描かれているわけではありません.
図書館のCDを通してさまざまな音楽に接しているという経路が用意されています。
さらに専門的なクラシック談義については、別の登場人物に担わせています。
そう考えると、人物造形には思っていた以上に線が引かれています。
それでもなお、プリンスとレディオヘッドとコルトレーンが一人の15歳の中で並ぶとき、そこに「村上春樹らしい音楽世界」を感じる読者がいるのも不思議ではありません。
実際、音楽評論の側からも同種の疑問が提示されています。
だから、この問題は、
「15歳がこんな音楽を聴くなんて不自然だ」
という話ではないのでしょう。
もっと小説技法に近い問いです。
作者の「好き」は、どこまで登場人物に与えてよいのか。
そして、
作者自身の嗜好を登場人物に与えたとき、それを「その人物自身のもの」にするためには、作品の中に何が必要なのか。
『海辺のカフカ』の15歳の少年は、その境界について考える格好の材料なのだと思います。
「自分の小説も、こんなふうに作品の内部から丁寧に読んでほしい」と思われた方へ。
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