小説を何冊も読んでいると、「この作家、この言葉をよく使うな」と気づくことがあります。
東野圭吾の作品を読んでいて、私が以前から気になっていたのが「顎を引く」という表現でした。
登場人物が何かに反応するとき、顎を引く。
最初は何らかの慣用的な言い回しなのかと思いました。しかし辞書を調べても、私が想定したような特別な意味は見つからない。
どうやら文字通り、人物のちょっとした身体動作を描いているらしい。
そして村上春樹を読んでいて、これと似たことに気づきました。
村上作品には、
「あるいは……かもしれない」
という言い回しがよく出てきます。
ここで注意したいのは、この「あるいは」を単純な選択として読んではいけないということです。
Aかもしれない、あるいはBかもしれない、ではない
一般に「あるいは」という言葉を見ると、
「Aである。あるいはBである」
という選択を思い浮かべます。
そのため、
「Aかもしれない。あるいはBかもしれない」
というように、複数の可能性を並べるための言葉として理解したくなります。
ところが、私が村上作品を読んでいて気になった「あるいは」は少し違います。
「あるいは、彼は最初からそのことを知っていたのかもしれない」
といった形です。
ここでの「あるいは」は、「AかBか」の「あるいは」というより、
「もしかしたら」
に近い。
つまり、
あるいは、○○なのかもしれない。
を、
もしかしたら、○○なのかもしれない。
と置き換えても、おおよその意味が通ります。
私はここに、村上春樹らしい文章の感触が生まれる理由の一つがあるように思います。
「もしかしたら」ではなく「あるいは」と書く
では、なぜ「もしかしたら」と書かず、「あるいは」と書くのでしょうか。
意味だけを伝えるのであれば、
「もしかしたら彼女は僕のことを嫌っていたのかもしれない」
でも十分です。
しかし、
「あるいは彼女は僕のことを嫌っていたのかもしれない」
とすると、少し文章の温度が変わります。
「もしかしたら」は、話し手が可能性を思いついている感じが比較的強い。
それに対して「あるいは」には、いったん対象から距離を置いて、いくつかあり得る世界のうちの一つを静かに差し出しているような感触があります。
断定しない。
しかし、完全に曖昧にするわけでもない。
一つの可能性だけをそっと置く。
この距離感が、村上作品の語り手とよく似合っています。
「やれやれ」も同じなのではないか
村上春樹には、もう一つ有名な反復表現があります。
「やれやれ」です。
主人公は奇妙な出来事に巻き込まれても、感情をそのまま爆発させるのではなく、「やれやれ」と半ば呆れたように受け止める。
これも単なる口癖と言ってしまえば、それまでです。
しかし何度も繰り返されると、その言葉が主人公と世界との距離を作り始めます。
世界に巻き込まれている。
しかし、世界と一体化してはいない。
少し離れたところから、自分自身が置かれた状況まで眺めている。
「あるいは……かもしれない」にも、私は似た距離を感じます。
世界について断定するのではなく、
「あるいは、こうなのかもしれない」
と一つの可能性として眺める。
これは単なる語彙の選択以上のものになっているのではないでしょうか。
作家の「癖」は、どこから「文体」になるのか
ここで最初の東野圭吾の「顎を引く」に戻ります。
作家には、それぞれ使いやすい言葉や構文があるのでしょう。
本人が強く意識している場合もあれば、ほとんど無意識に使っている場合もあると思います。
最初は単なる「癖」だったのかもしれません。
しかし同じ表現が作品の中で繰り返されると、それは読者がその作家を認識するためのリズムになります。
そして、その言葉が登場人物の性格や世界との距離、さらには作品全体の認識の仕方と結びついたとき、「癖」は「文体」へ変わるのではないでしょうか。
村上春樹の「あるいは……かもしれない」が意図的な技法なのか、本人の文章上の癖なのか。それを作者自身の説明なしに断定することはできません。
しかし、もっと重要なのは別のところにあると思います。
なぜその作家は、その言葉を繰り返し選ぶのか。
そして、その言葉を別の言葉に置き換えたとき、何が失われるのか。
「あるいは」を「もしかしたら」に置き換えてみる。
意味は大きく変わらない。
それなのに、どこか村上春樹ではなくなる。
そのわずかな差の中に、私たちが普段「文体」と呼んでいるものの正体が隠れているのかもしれません。
私の小説感想サービスでは、誤字脱字やストーリーの感想だけではなく、こうした反復表現、語りの癖、視点、構造、読者に与える印象まで細かく読み込みます。
作品を「直すべきところ」だけではなく、すでにその作品に存在している、その人ならではの文体や魅力まで拾い上げる感想をお返しします。