村上春樹『ノルウェイの森』を読んでいて、こんな一文に目が止まりました。
「大方の少年野球がそうであるように四球と盗塁の多いゲームだった」(文庫版・下106頁)
私はこの文章を読んだとき、ほとんど何の抵抗もなく、
「そうだよな。少年野球ってそんな感じだよな」
と思いました。
しかし、そのあとで少し立ち止まりました。
私は、少年野球では本当に四球と盗塁が多いのか、統計を見たことがありません。
それなのに、なぜ「そうだろう」と思ったのでしょうか。
ここには、小説がリアリティを作る一つの方法が隠れているように思います。
二つのことが一文に書かれている
この文章を分解すると、実は性質の異なる二つの記述があります。
まず、
「この試合では四球と盗塁が多かった」
という記述。
これは小説の中で起きた出来事です。
作者がそう設定したのだから、作中の事実として受け入れることができます。
ところが、その前には、
「大方の少年野球がそうであるように」
とあります。
こちらは少し違います。
これは、
「少年野球では一般に四球と盗塁が多い」
という、現実世界についての一般化として読めます。
つまり、
少年野球では一般に四球と盗塁が多い
↓
この試合でも四球と盗塁が多かった
という構造になっている。
前者があることで、後者が単なる作者の設定ではなく、「少年野球なら当然そうなるよね」という生活感を帯びるわけです。
なぜ私は「そうかもしれない」と思ったのか
ここが面白いところです。
「少年野球は四球と盗塁が多い」
私はその真偽を確認していません。
それでも、なんとなく納得できる。
おそらく私たちは、その一文から無意識にいろいろなことを補っています。
少年なのだから、投手の制球はまだ完全ではないだろう。
捕手の送球も大人ほど正確ではないかもしれない。
走者も積極的に走るのかもしれない。
そう考えると、
「四球と盗塁が多い」
という記述が妙にもっともらしく感じられます。
作者はそこまで説明していません。
しかし、具体的な二つの言葉を置くことで、読者の頭の中に少年野球の風景が立ち上がる。
ここには、
具体性 → 読者による補完 → リアリティ
という流れがあるように思います。
具体的であることと、正しいことは違う
ただし、ここには注意すべき点があります。
具体的な文章は、本当らしく見えます。
しかし、
具体的であることと、事実として正しいことは同じではありません。
たとえば、この文章を少し変えてみます。
大方の少年野球がそうであるように、ホームランの多いゲームだった。
どうでしょうか。
野球に詳しい人なら「いや、それは違うだろう」と感じるかもしれません。
しかし、野球についてほとんど知らない読者なら、
「少年野球ってホームランが多いのか」
と、そのまま受け入れる可能性もあります。
もちろん、だから小説では何を書いてもよい、という話ではありません。
むしろ逆です。
作者が具体的に言い切るほど、読者はそこに事実性を感じやすくなる。
「もっともらしく書く力」は、そのまま読者を誤った方向へ導く力にもなり得る。
読者は一文ごとにファクトチェックしない
小説を読みながら、私たちは普通、
「少年野球における四球率の統計を確認してから続きを読もう」
とは考えません。
文章がそれらしく、既存の知識とも大きく衝突しなければ、そのまま通過します。
ここに小説の面白さがあります。
作者が、
「少年野球の選手たちはまだ技術的に未熟であり……」
と長々説明する必要はありません。
「四球と盗塁」
という二つの具体を置くだけでいい。
すると読者が勝手に残りを作ってくれる。
私は以前、小説におけるリアリティについて、
現実を正確に複写することと、読者の中に現実を立ち上げることは同じではない
と考えました。
今回の一文は、そのことを非常に小さな単位で見せているように思います。
「もっともらしい一般化」という技法
ここで私が注目したいのは、
「四球と盗塁が多かった」
ではなく、
「大方の少年野球がそうであるように」
のほうです。
この短い言葉によって、一試合の描写だったものが「少年野球という世界の日常」に変わります。
これは創作でも使える技法だと思います。
たとえば、
この町の冬にはよくあることだった。
新人の看護師なら誰でも一度は戸惑うことだった。
古い団地では珍しくない音だった。
こうした文章を置くと、たった一度の出来事が、その世界で繰り返されている日常のように見えてきます。
作品の背後に、本文には書かれていない巨大な生活世界があるように感じられる。
私はこれを、
「もっともらしい一般化」
と呼んでみたいと思います。
しかし一般化には危険もある
ただ、この方法には危うさもあります。
架空世界について、
「この村では昔からそうだった」
と書くなら、作者がその世界を作ることができます。
しかし、現実に存在する地域、職業、世代、民族などについて、
「この人たちは普通こうする」
と書けば事情が変わります。
そこには実在する人たちがいるからです。
「もっともらしい一般化」は、小説の世界を一瞬で厚くすることができる。
その一方で、根拠の弱い一般化を、読者に「現実とはそういうものだ」と思わせてしまうこともあります。
リアリティを作る技法と、ステレオタイプを作る技法は、思った以上に近い場所にあるのかもしれません。
「本当なのか?」より先に「なぜ信じたのか?」
今回、私は「少年野球では本当に四球と盗塁が多いのか」を調べたくなりました。
しかし、小説を読むうえでもっと面白い問いは、むしろこちらなのではないでしょうか。
私は真偽を知らなかったのに、なぜ読んだ瞬間に「そうだよな」と思ったのか。
小説のリアリティは、必ずしも大量の取材資料から生まれるわけではありません。
たった一つの具体。
たった一つの一般化。
そして、読者がすでに持っている曖昧な経験や知識。
それらがうまく噛み合ったとき、作者がすべてを書かなくても、読者の中で「現実」が立ち上がる。
だから創作するときには、
「これは本当か」
と確認することと同時に、
「なぜ読者はこれを本当らしいと感じるのか」
を考えてみる。
その二つを区別することが、小説のリアリティを考える一つの手がかりになるのではないかと思います。
私はココナラの小説講評でも、設定の事実確認だけでなく、「その一文によって読者の中にどんな現実が立ち上がるのか」というところまで読みます。
事実としては間違っていない。でも、なぜか作り物っぽい。
逆に、完全な虚構なのに妙に生々しい。
そうした「文章とリアリティの距離」が気になる方は、小説講評サービスをご覧ください。