黒を描くために、黒を重ねなくていい――『ノルウェイの森』の「井戸」から考えたこと

黒を描くために、黒を重ねなくていい――『ノルウェイの森』の「井戸」から考えたこと

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学び
小説で「暗い場面」を書こうとすると、私たちはつい暗いものを重ねようとします。

孤独。

死。

恐怖。

絶望。

冷たさ。

そうした言葉を積み重ねれば積み重ねるほど、暗い世界ができあがるように思えるからです。

しかし村上春樹『ノルウェイの森』を読んでいて、むしろ逆なのではないかと思わされる場面(12頁~)がありました。

直子が「井戸」について語る場面です。

「暗い井戸」ではなく、「暗黒がつまっている」(13頁、一部略)

この井戸の描写で、まず私が引っかかったのは「暗黒」の扱いでした。

普通なら、

「井戸の中は暗い」

と書くことができます。

この場合、「暗い」は井戸の性質です。

ところが、この場面ではそうではありません。

井戸の中に「暗黒」がつまっているものとして描かれる。

ここで奇妙なことが起こっています。

本来なら光がない状態にすぎない「暗さ」が、まるで物質のように扱われているのです。

井戸が容器になり、その中に暗黒という物質が入っている。

しかも、その暗黒は「世の中のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒」(13頁)として語られます。

「煮つめる」という表現も面白い。

液体なら煮つめることができます。

しかし、暗黒を煮つめることはできません。

それでも、この言葉によって暗黒には濃度が生まれる。

単なる「光の欠如」だったものが、

量を持ち、密度を持ち、井戸の中を満たすもの

へと変わっていきます。

私はここを読んで、ブラックホールのようなものを想像しました。

もちろん、それが作者の意図だと言いたいわけではありません。

ただ、それほどまでに「暗黒」が物質化されて感じられたのです。

井戸の中に、一つの世界が作られる

さらに直子は、もし人間がその井戸に落ちたらどうなるのかを想像します。

すぐに死ねればまだいい。

しかし中途半端な怪我だけで生き残ったらどうなるのか。

叫んでも誰にも聞こえない。

誰かに見つけてもらえる可能性もない。

虫がいる。

かつてそこで死んだ人間の白骨が散らばっている。

湿っている。

そして、一人でゆっくり死んでいく。

ここまで来ると、この井戸は単なる「危険な穴」ではなくなります。

地上から完全に切り離された、もう一つの世界になっています。

特に私が重要だと思ったのは、

声が届かない

ということでした。

人間の声は、本来、自分と他者をつなぐものです。

助けを求めれば、誰かが聞いてくれるかもしれない。

しかし、この井戸ではその回路が切断されています。

だから井戸の恐怖は、単に「死ぬのが怖い」というものではありません。

誰ともつながれないまま、一人で死んでいく。

そこに恐怖の中心があるように思えました。

暗黒の中に「冬の月」がある

ところが、この描写には暗いものだけが置かれているわけではありません。

井戸のはるか上に、小さな光が見えます。

直子はそれを「冬の月」(15頁)にたとえます。

私はここがとても美しいと思いました。

単に、

「井戸の出口から小さな光が見えた」

と書くこともできる。

しかし、それを「月」として捉えることで、出口は急に遠くなる。

月は見えます。

しかし手は届きません。

しかも「月」ではなく、冬の月です。

そこには冷たさや静けさ、澄んだ空気、孤独といった情感までまとわりつきます。

井戸の底には、

暗黒。

白骨。

虫。

湿気。

孤独。

死。

それだけを並べても、十分に恐ろしい場面になったでしょう。

しかし、そこへ作者は一滴だけ「白」を落とします。

遠くに見える、小さな光です。

黒を描くために、黒だけを使わなくていい

ここから私は、一つの創作上のヒントを持ち帰りました。

黒を描くために、黒の描写を重ね続ける必要はない。

黒の中へ、ほんの少し白を混ぜればいい。

白が入れば黒が薄くなる、と考えてしまいがちです。

しかし小説では、逆のことが起こります。

白があるからこそ、

「自分がどれほど白から遠いところにいるのか」

が分かる。

井戸の上に光がなければ、そこが暗いことしか分かりません。

ところが遠くに小さな光が見えることで、井戸の深さが分かる。

何メートルという数字を示す必要もありません。

光までの心理的な距離によって、井戸の深さを感じさせることができる。

だから、

黒99に対して、白1。

その「1」があることで、残りの99がさらに黒く見えるのです。

これは風景描写だけの技法ではない

そして、この方法は風景描写だけに使えるものではないと思います。

たとえば、残酷な人物を書くとします。

冷たい言葉を言う。

人を傷つける。

他人に無関心である。

そうした「黒」を重ねれば、その人物が残酷であることは伝わります。

しかし、黒ばかり重ねていくと、人物が一色になってしまうことがあります。

そこで、小さな白を一つだけ置く。

たとえば、誰にも優しくしない人物が、道端の猫にだけ餌を置いていく。

だからといって、

「本当は優しい人だった」

と説明する必要はありません。

むしろ説明しない。

すると読者の中に、

「猫にはこんなことができる人間が、なぜあの人にはあんなことをしたのだろう」

という問いが生まれます。

白によって黒が否定されるのではありません。

白が存在することで、黒が複雑になるのです。

心理描写にも「一滴の白」を置く

心理描写でも同じことができるでしょう。

絶望している人物について、

「悲しかった」

「未来などないと思った」

「何もする気になれなかった」

と書き続ける。

もちろん、それも一つの方法です。

しかし例えば、

明日の朝に食べようと思って、プリンだけ冷蔵庫に残した。

という具体を一つ置いたらどうでしょう。

その人物は「希望を持った」とは言っていません。

明日を楽しみにしているとも言っていません。

それでも、ほんのわずかに「明日の自分」が存在しています。

その小さな白があるからこそ、現在の暗さが際立つことがあります。

そして「井戸」は直子の内面にも見える

さらに重要なのは、この井戸について語っているのが直子だということです。

そう考えると、この井戸は単なる風景描写ではなく、直子の心理描写としても読むことができます。

誰にも声が届かない。

誰にも見つけてもらえない。

過去に死んだ人間たちの痕跡がある。

一人でゆっくり死んでいく。

そして、はるか遠くにだけ光が見える。

直子は、

「私は孤独だ」

「私は絶望している」

と直接説明しているわけではありません。

代わりに、一つの井戸を作り、その内部を語っている。

つまり、

心理を説明するのではなく、心理を空間へ変換している。

そう考えると、この井戸の描写は人物造形としても非常に興味深いものになります。

ただし、私は遠くの光を単純に「希望」と決めつける必要はないと思います。

希望なのかもしれない。

あるいは、

見えているのに決して届かない世界
なのかもしれない。

作者が「この光は希望の象徴です」と説明しないからこそ、両方の読みが残ります。

「白」は黒を消すものではない

小説を書くとき、私たちはつい感情を純化したくなります。

悲しい場面なら、悲しいものだけを置く。

怖い場面なら、怖いものだけを置く。

悪い人物なら、悪いところを積み重ねる。

しかし、人間の感情はそんなに単色ではありません。

だからこそ、今回の井戸の描写から私が持ち帰りたいのは、

黒を描くために、黒を重ね続けなくていい。

ということです。

暗黒の底に、小さな冬の月を一つ置く。

その白は黒を薄めません。

むしろ、

白があることで、黒がどれほど黒いのかが初めて見えてくる。

風景描写にも使える。

心理描写にも使える。

人物造形にも使える。

小説を書くとき、

「もっと黒くしよう」と黒を足す前に、一滴だけ白を置けないだろうか。

そんなことを考えさせられた場面でした。

自分の原稿の「暗い場面」が、黒だけで塗りつぶされていないか。

あるいは逆に、置いたはずの一滴の白が、読者にちゃんと見えているか。

書いている本人には、その濃淡が分かりにくいものです。

一人の読者として、実際にどこで黒が深く見えたか、どこで白に気づいたかをお伝えします。


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