小説を読んでいて、最近よく考えることがあります。
それは、
「登場人物の感情を、どこまで書くべきなのか」
という問題です。
心理描写は小説の重要な要素です。
しかし、人物が何を感じているのかを丁寧に書けば書くほど、人物が深くなるとは限りません。
むしろ、感情を説明しすぎることで、読者が人物について考える余地を奪ってしまうことがあります。
今回読んでいた小説(又吉直樹『劇場』)には、そのことを考えさせられる場面がいくつもありました。
「嫉妬した」「こたえた」「棘が刺さった」
主人公が、以前自分の劇団に所属していた人物と話す場面があります。
相手は、主人公と同年代の別の演出家を「天才」とまで評価します。(116頁)
主人公には嫉妬があります。
ところが、その感情について文章はさらに説明を重ねていきます。
「少しこたえた」(116頁)
さらに、
「言葉の端々にある棘が自分を刺すようだった」(116頁)
という方向へ進みます。
そして、その後には、
「安心してしまう部分もあり」(116頁)
「情けなく思った」(116頁)
という別の感情まで説明されます。
人間の感情が矛盾していること自体は、もちろん不自然ではありません。
嫉妬しながら安心する。
安心した自分を嫌悪する。
そういう複雑さは実際にあります。
しかし問題は、その複雑さを作者がすべて言葉にしてしまう必要があるのかということです。
読者に渡される情報を整理すると、
嫉妬した。
傷ついた。
言葉が刺さった。
でも安心した。
そんな自分が情けなかった。
となります。
これは人物の心理を細かく描いているようでいて、別の見方をすれば、
読者が人物について解釈する前に、語り手が解釈を終えてしまっている
とも言えます。
「情報の鮮度」という考え方
ここで私は、「情報の鮮度」ということを考えました。
「嫉妬した」という情報を読者がすでに受け取っている。
そのあと「少しこたえた」と書く。
さらに「棘が刺さった」と書く。
表現そのものは違います。
しかし、読者が新しく受け取る情報は、それほど増えていません。
むしろ同じ感情を別の言葉で説明し直している面が強くなります。
文章を削るとき、
「長いから削る」
だけでは不十分なのかもしれません。
それよりも
「この一文によって、新しい情報は増えているだろうか」
と考えてみる。
情報の鮮度が落ちたところを削る。
これは推敲の一つの基準になりそうです。
感情ではなく、出来事を残す
では、どうすればいいのでしょうか。
私はこの場面なら、相手の二つの発言をつなげたうえで、たとえば、
僕は彼の話を聞きながら、次に来る言葉を予測していた。そして、その言葉を聞いてしまった。
くらいで終えてもいいのではないかと思いました。
ここでは、
「傷ついた」
とも、
「嫉妬した」
とも、
「安心した」
とも書いていません。
しかし、何も伝わらないわけではありません。
ある読者なら、
「嫉妬しているんだな」
と読むでしょう。
別の読者なら、
「自分ではなく別の人間の話だから、どこか安心しているのではないか」
と読むかもしれません。
さらに、
「そんなことに安心している自分自身を嫌悪しているのではないか」
と読む人もいるでしょう。
原文にあった感情が消えたわけではありません。
感情の解釈をする場所が、作者側から読者側へ移ったのです。
私は、この余剰性が文学には大切なのではないかと思います。
「満更でもない」も解釈である
似たことを感じた場面がもう一つありました。
ある人物が謙遜するような発言をしたあと、
「満更でもない様子だった」(119頁)
という説明が入ります。
これも意味はよく分かります。
口では否定している。
でも本当は嬉しいらしい。
ただ、「満更でもない」と書いた瞬間に、人物の表情についての解釈まで語り手が引き受けます。
それなら、
僕に話しているときとは違って、彼はそこで初めて表情を崩した。
くらいでもいいのではないでしょうか。
言葉では謙遜する。
しかし表情が変化する。
そこまでを作者が提示して、
「本当は嬉しいのではないか」
という判断は読者に任せる。
「満更でもない」という感情を削ったのではありません。
感情を身体へ移した
と考えることができます。
「永遠に続いてほしい」は、本当に必要なのか
恋人が笑っている場面でも、似たことを感じました。
主人公は幸せそうに笑う恋人を見て、
「この時間が永遠に続いてほしい」
「この時間だけが永遠に繰り返されればいい」
と願います。
気持ちはよく分かります。
しかし、
好きな人が笑っている幸せな時間が永遠に続いてほしい
という感情は、かなり普遍的でもあります。
しかも「永遠に続いてほしい」と「永遠に繰り返されればいい」は、情報としてかなり近い。
そこで、たとえば、
僕はその姿を脳裏に焼き付けようとした。
としたらどうでしょうか。
こちらは「永遠」という抽象語を使いません。
しかし不思議なことに、むしろ時間が感じられます。
なぜ「焼き付けよう」とするのでしょう。
いつか、この光景がなくなるかもしれないからです。
現在の幸福を記憶へ保存しようとする行為には、すでに喪失の予感が含まれています。
説明を減らしたことで、逆に意味が増えることがあります。
比喩は難解なのに、心理は説明しすぎる
一方で、別の種類の問題もありました。
作中には、
「優しい人の顔を見ながらでは血だらけで走ることができない」(126頁)
という趣旨の文章があります。
おそらく、
傷ついても一人で走り続けたい。
しかし優しい人がそばにいると強がれなくなる。
弱さを見せて、寄り掛かってしまう。
という意味なのでしょう。
ところが「血だらけで走る」という比喩がかなり飛躍しています。
読者は、
なぜ血だらけなのか。
なぜ走るのか。
なぜ優しい人を見ると走れないのか。
を一度に解読する必要があります。
興味深いのは、比喩そのものは説明不足なのに、その後の心理は細かく説明されることです。
これは、
具体を説明しすぎている
というより、
比喩は飛躍しすぎているのに、比喩の意味は説明しすぎている
というねじれなのかもしれません。
ビー玉を壊した少年
そして、ここまで読んでいて特に印象に残ったのが、以前登場したビー玉の話です。
主人公は子供のころ、美しいビー玉を持っていました。
それを壁へ投げて壊してしまいます。
年上の子供に促されたとはいえ、断ろうと思えば断れた。
それでも壊した。
理由として語られるのが、
「後悔に震えてみたくてやったことだった」(50頁)
という倒錯した感情です。
大切なものだから守る。
普通ならそう考えます。
しかし主人公は逆です。
大切なものだからこそ、それを自分で壊した後に生まれる感情を経験してみたい。
この小さなエピソードが、後になって違った意味を帯びてきました。
大切な関係を、自分から壊そうとしているのではないか
物語が進むにつれて、主人公と恋人との関係にも少しずつ揺れが生じます。
主人公は恋人を嫌いになったわけではありません。
むしろ大切に思っている。
それでも、
このまま二人だけの世界にいていいのだろうか。
もっと社会性を身につけなければならないのではないか。
外の世界へ出なければならないのではないか。
そんな方向へ動き始めます。
ここで、あのビー玉を思い出しました。
子供のころは、
大切なもの
→ 自分で壊す
→ 後悔する
でした。
現在では、
大切な関係
→ このままではいけないと思う
→ 自分から壊そうとする
→ 後悔することをどこかで予感している
という形になっているのではないでしょうか。
もちろん、これは現時点での一つの読みです。
しかし、もしそうなら面白い。
子供のころには「後悔してみたい」という裸の衝動だったものが、大人になると、
「もっと社会性を身につけなければ」
「このままではいけない」
という、もっともらしい理由をまとって現れる。
理屈は変わっても、行動の型は変わっていないのではないか。
そんな読みが可能になります。
伏線とは「情報」だけではない
ここで、以前から考えていた「伏線」の問題にもつながりました。
伏線というと、
「あのとき出てきた物が、後で重要になる」
という情報の仕込みを想像しがちです。
しかし、小説には別の伏線もあるのかもしれません。
人物の行動の型を、先に小さな出来事として経験させておく。
ビー玉そのものが後で登場する必要はありません。
「大切なものを、自分自身で壊してしまう」
という行動の型が、より大きな人間関係の中で反復されればいい。
そう考えると、伏線とは未来の出来事についての情報だけではなく、
人物が何度も繰り返してしまう感情や行動の型
でもあり得ます。
感情を削るのではなく、解釈を削る
今回の読書から、自分の中で一つの基準ができました。
心理描写を減らすというと、
「人物の感情を書かない」
ことのように聞こえます。
でも、そうではありません。
私が削りたいと思ったのは、感情そのものではなく、
すでに具体的な出来事から読み取れる感情についての解説
です。
人物の発言を置く。
表情を置く。
身体の動きを置く。
行動を置く。
過去の小さな経験を置く。
そこまで書いたら、
「つまり、この人物はこう感じているのです」
という最後の一文を、あえて書かない。
すると、その空白に読者が入ってきます。
ある人は嫉妬と読む。
ある人は安心と読む。
ある人は自己嫌悪と読む。
そして読み返したときには、ビー玉のような何でもない過去の出来事が、現在の人物の行動と突然つながるかもしれない。
感情を削るのではなく、感情を読者が発見できるところまで具体を残して、解釈を削る。
それが、小説に「余白」を作るということなのかもしれません。
自分の原稿のどこで、感情をすでに説明しすぎているか。書いている本人には、それが「丁寧な描写」なのか「読者の解釈を奪う説明」なのか、なかなか判断がつきません。一人の読者として、実際にどこで解釈の余地を感じたか、どこで説明されすぎたと感じたかをお伝えします。