伏線は「情報」ではなく「感情の型」を埋め込む

伏線は「情報」ではなく「感情の型」を埋め込む

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又吉直樹『劇場』を読んでいて、夕焼けの場面で立ち止まった。(50頁)

登場人物たちは、夕焼けについて話している。

ただし、単純に「夕焼けが美しい」という場面ではない。

太陽が大きすぎて怖い。

犬が激しく吠えていた。

子どものころ、その夕焼けが怖くて、そろばん教室へ行くのをやめて家に帰ったことがある。

そんな話が交わされている。

夕焼けは美しい。

しかし、どこか不穏でもある。

この「美しいけれど怖い」という感覚が、その直後に出てくる一つの記憶につながっていく。

主人公は、目の前にある赤と紫の夕空を見て、子どものころに持っていたビー玉を思い出す。

そのビー玉も、同じような色をしていた。

単色のビー玉より高価なものだった。

ところが主人公は、その大切なビー玉を校舎の壁に投げつけ、粉々にしてしまったという。

「近所の年上にうなされたとはいえ、断ろうと思えば断ることはできた」(50頁)

では、なぜ壊したのか。

主人公は「後悔に震えてみたくてやった」(50頁)のだと振り返る。

私はここが非常に面白かった。

夕焼けからビー玉へ

ここには一つの共通した構造があるように思う。

夕焼けは、

美しい。だけど怖い。

ビー玉は、

美しく、大切である。だけど壊してみたい。

そして後悔も、

苦しいはずなのに、それを経験してみたい。

つまり、この場面には一貫して、

「惹かれること」と「恐れること」が同時に存在する

という、ねじれた感情が流れている。

だから「後悔に震えてみたくて」という一文だけが、突然現れた奇妙な心理ではない。

その前の夕焼けの不穏さによって、読者はすでに「怖いのに惹かれる」という感覚の中へ連れていかれている。

しかも作者は、

「主人公には自分から傷つくような状況を作ってしまう傾向がある」

などとは説明していない。

夕焼け。

犬の鳴き声。

そろばん教室。

赤と紫のビー玉。

壁にぶつかって砕けるビー玉。

そうした具体的なものを並べているだけだ。

もし、このあと主人公が人間関係などにおいて、

「大切なのに自分から壊す」

「傷つくと分かっているのに近づく」

「後悔すると分かっている選択をする」

という行動を取ったなら、このビー玉の記憶は俄然意味を持ってくる。

「あのビー玉は、この人の行動原理そのものだったのか」

と、読者はあとから気づくことになる。

私はここで、伏線について少し考え直した。

伏線とは、情報を先に置くことだけではない

伏線というと、

「後半で必要になる情報を、前半にさりげなく出しておく」

というものを想像しがちだ。

しかし、それだけではないのだと思う。

人物が後に繰り返す「感情や行動の型」を、小さな出来事として先に経験させておく。

これも伏線なのではないだろうか。

しかも、こちらのほうが小説としては面白い場合がある。

「このビー玉は後で重要になりますよ」

とは誰も教えてくれない。

後の出来事を読んで初めて、以前の何でもない場面の意味が変わる。

つまり伏線の意味は、置かれた瞬間に完成しているのではない。

後ろから光を当てられることで、過去の場面が別の意味を帯びる。


小説を読む面白さは、こういうところにもあるのだと思う。

「この表現は上手い」と感心するだけではない。

なぜ上手いのかを構造まで分解してみる。

すると、その作品について分かるだけではなく、自分の作品で何をやりすぎていたのかまで見えてくる。

今回、私が一番大きく持ち帰ったのは、このことだった。

伏線とは、答えを先に隠しておくことだけではない。

後になって繰り返される感情や行動の型を、具体的な経験として先に生きさせておくことでもある。

そして思想も同じなのかもしれない。

思想を説明するのではない。

夕焼けを見せる。

ビー玉を壊す。

その具体の積み重ねの向こう側に、読者が思想を発見する。

今回の読書で、私はそんな小説の書き方を改めて考えさせられた。

もう一つ。

読者がもう分かっていることを、作者が説明してしまうとき

「この一文、なくてもいいのではないか」と感じることがあります。(43頁~)

主人公の恋人である沙希が、美容関係者や雑誌関係者から声をかけられる場面です。

沙希が申し訳なさそうに、
「ごめんね。次から断るね」(45頁)

と言います。

主人公は、

「大丈夫やで」(同)

と答える。

そして、そのあとに主人公の心理が書かれます。

「なぜか僕は少しだけ誇らしかった」(同)

私はここで少し引っかかりました。

もちろん、意味は分かります。

自分の恋人が他人から声をかけられるほど魅力的である。

それを不快に感じながらも、どこかでは誇らしく思っている。

その矛盾した心理を示した一文なのでしょう。

ただ、「なぜか」と書く必要があるのでしょうか。

ここまでの状況を読んでいれば、主人公がなぜ誇らしく感じたのか、読者はある程度推測できます。

むしろ、

僕は少しだけ誇らしかった。

だけのほうが、その矛盾は鮮明になるかもしれません。

さらに考えるなら、「誇らしかった」まで書かなくてもいい可能性があります。

「大丈夫やで」と答えたところで文章を止めれば、主人公が沙希をどう見ているのかは読者に委ねられるからです。

これは「説明するか、しないか」という、小説では何度も出会う問題です。

そして、そのすぐあとに、もう一つ興味深い文章がありました。

主人公は沙希と歩きながら、こんなことを考えます。

自分より速く歩く人は嫌いだし、自分よりも歩くのが遅い人はもっと嫌いだった。おなじ速度で歩いてくれる人だけが好きだった。(49頁)

そして、

歩く速度を意識させない人が好きだった。(同)

というところまで思考が進みます。

私はこの一文が面白いと思いました。

ここでいう「歩く速度」は、もはや単なる歩行速度だけではないように読めます。

他人との距離。

関係のテンポ。

自分と相手とのずれ。

同じ速度で歩いているとき、相手の速度を意識する必要がない。

人間関係についての小さなアフォリズムとして読むことができます。

ところが、そのあとにこう続きます。

だが、沙希は完璧な速度で歩くことによって、僕に歩く速度について深く考えさせた。(49頁)

最初に読んだとき、私はこの一文を「なくてもいいのではないか」と思いました。

特に気になったのは、

深く考えさせた

という部分です。

それまでの文章ですでに読者は「歩く速度」について考え始めています。

そこへ作者から「主人公も深く考えました」と言われると、少しだけ、
ここには深い意味がありますよ。

と念を押されているように感じるのです。

寓意は、寓意だと説明された瞬間に少し力を失うことがあります。

しかし、前の場面と合わせて考えてみると、この最後の一文には別の役割があることにも気づきました。

主人公は、それまで「歩く速度を意識させない人」が好きだと言っています。

ところが沙希だけは違う。

沙希は完璧な速度で歩いている。

完璧だから、本来なら意識しなくていいはずです。

それなのに、沙希は主人公に歩く速度を意識させる。

ここには明確な反転があります。

さらに、その直前の場面でも似たことが起きています。

主人公は、美容関係者や雑誌関係者のような人たちを嫌っています。

ところが、そんな人たちから沙希が声をかけられると、主人公は「少しだけ誇らしかった」(45頁)。

嫌いなのに、誇らしい。

意識したくないのに、意識してしまう。

二つの場面を並べると、沙希という人物の特殊性が浮かんできます。

沙希は主人公の価値観にぴったり収まる人物ではなく、主人公自身の価値観を主人公に意識させてしまう人物なのではないか。

そう考えると、

だが沙希は――

から始まる最後の一文そのものを削ってしまうのは惜しい。

問題は、その一文の存在ではなく、「深く考えさせた」という説明の仕方なのかもしれません。

たとえば、

歩く速度を意識させない人が好きだった。
だが沙希は、僕に歩く速度を意識させた。

ここまで削れば、前後の言葉がきれいに反転します。

「意識させない」から「意識させる」へ。

作者が「ここは深いですよ」と説明しなくても、構造そのものが意味を語ってくれます。

今回の三箇所を読んでいて改めて思いました。

小説の推敲では、「この文章は必要か、不要か」だけを考えるのでは足りないのかもしれません。

その一文が担っている機能は必要なのか。

その機能を、もっと説明せずに残すことはできないか。

文章を削るとは、意味を削ることではありません。

ときには説明だけを削ることで、それまで説明の陰に隠れていた意味が、かえってはっきり見えてくるのだと思います。

今回のように私は、小説を読むときに「面白かった/面白くなかった」だけではなく、
伏線がどう機能しているのか。
心理描写が説明になりすぎていないか。
具体的な描写が、作品全体の構造とどう結びついているのか。
といったところまで掘り下げて読んでいます。
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