私は普段、小説を読むときに「構造」をかなり気にします。
純文学の講評をするときにも、作品の構造を分析することを大切にしています。
読後感そのものは、人によって違っていいと思っています。
ある場面を美しいと思う人もいれば、不快だと思う人もいる。
同じ登場人物に共感する人もいれば、まったく理解できない人もいる。
そこに正解を作る必要はありません。
ただ、作者が意図していたものとは大きく違う読みが作品そのものから誘発されているのであれば、「なぜそう読めてしまうのか」と作品の構造を考えてみる必要はある。
私はそんなふうに考えています。
でも今日は、構造分析の話ではありません。
又吉直樹さんの『劇場』を読んでいて、一つの文章の前で立ち止まりました。
青山からも「キサマニトウ」から始まる全文カタカナの呪いのようなメールが送られてきたが、気味が悪かったので読まずに「過剰演出、読むに値せず」と返信したら、「マジ死ね」と、ようやく人間らしい言葉が送られてきた。(38頁)
私が引っかかったのは、
「マジ死ね」
でした。
かなり強い言葉です。
でも、それ以上に引っかかったのが、その直後に置かれた、
「ようやく人間らしい言葉」
という表現でした。
「死ね」が、人間らしい?
生きていると、ときどき自分の中に暗い感情が立ち上がることがあります。
誰かに腹が立つ。
憎らしいと思う。
こんなことを考えてはいけないと思うような、強い言葉が一瞬だけ頭をよぎる。
もちろん、それを実際に相手へぶつけることとは別の話です。
でも、心の中にそういう感情が生まれてしまうことはある。
私はそういうとき、どこか後ろめたさを感じます。
こんなことを考える自分はよくない。
こんな感情は持たないほうがいい。
できれば見なかったことにしたい。
だから『劇場』のこの一文は、少し意外でした。
「マジ死ね」という言葉を、単純に醜いものとして退けない。
むしろ、
「人間らしい」
と拾い上げている。
私はそこで、
「ああ、これも人間なのか」
と思いました。
練り上げた言葉より、むき出しの一言
その前に送られてきたメールは、「キサマニトウ」から始まる全文カタカナの文章です。
「呪いのようなメール」とまで表現されています。
そこには、おそらく青山なりの強い感情が込められている。
けれど、それを受け取った側は、
「過剰演出、読むに値せず」
と退けます。
感情を表現しようとして言葉を重ね、演出した結果、かえってその感情そのものが見えなくなってしまった。
ところが、それを一蹴された瞬間に返ってきたのが、
「マジ死ね」
という一言です。
飾っていない。
文学的でもない。
格好よくもない。
むしろ幼稚にさえ見える。
でも、そこには腹を立てた人間がいる。
だから「ようやく人間らしい」。
この言葉の置き方が、私はおもしろかったのです。
「人」ではなく「人間」という言葉
そして私は、「人間らしい」という言葉そのものにも引っかかりました。
これは私自身の語感なのですが、「人」と言われると、どこか社会の中で生活している存在を想像します。
でも「人間」と言われると、もう少し生々しいものが浮かんでくる。
理性だけでは動かない。
怒る。
嫉妬する。
憎む。
誰かを好きになる。
傷つけば、相手を傷つけ返したいと思うこともある。
そこには強さもあれば、弱さもある。
きれいに整理できないものを抱えて、それでも生きている。
そんな生き物としての人間です。
だから私は、
「マジ死ね」と思ってしまうところまで含めて、人間なのかもしれない。
と、この文章を読んで思いました。
もちろん、「死ね」と誰かに言うことを肯定したいわけではありません。
感情を持つことと、その感情のまま他人を傷つけることは違います。
でも、感情が生まれることそのものまで否定しなくてもいいのかもしれない。
そこが、私には少し救いでした。
小説は、背を向けたくなる感情を明るみに出す
私たちは、自分の中にあるきれいな感情なら、人に見せることができます。
優しさ。
愛情。
感謝。
思いやり。
でも、人間の中にあるのはそれだけではありません。
嫉妬もある。
憎しみもある。
怒りもある。
誰にも見せたくない感情もある。
そういうものには、つい背を向けたくなります。
でも小説は、ときどきそこへ手を伸ばす。
自分一人の胸の中にあれば「こんなことを考えてはいけない」と隠してしまう感情を、登場人物の言葉として明るい場所へ持ってくる。
そして読者は、
「あ、自分だけじゃなかったんだ」
と思う。
私はこれを、感情を公共化することと呼びたくなりました。
「こんな感情を持つべきだ」と勧めるわけではない。
「こんな感情は正しい」と正当化するわけでもない。
ただ、
人間には、こんな感情もある。
と、そこに置いてみる。
すると、自分の中でずっと「やましいもの」だった感情を、少し離れたところから眺めることができる。
文学を読むことには、そんな働きもあるのではないでしょうか。
「ああ、これも人間なのか」
『劇場』のほんの短い一節です。
でも私は、「マジ死ね」という言葉そのものより、
「ようやく人間らしい言葉」
という、その拾い上げ方に立ち止まりました。
人間は、いつも立派ではない。
いつも優しくもない。
理性的でもない。
自分でも見たくないようなものが、自分の中から出てくることもある。
でも文学は、その暗い部分まで拾い上げて、
「これも人間ですよ」
と差し出すことがある。
それを読んで、
「ああ、こういう感情って、持ってしまってもいいのか」
と少しだけ思える。
私はそこにも、小説を読む意味があるような気がしています。
自分の作品の中にある、まだ言葉にできていない感情や、書いた本人も気づいていない部分を、一人の読者として拾い上げます。