山下澄人『しんせかい』を読みながら、私は何度も戸惑った。
この小説は、いったいどこへ向かっているのだろう。
出来事は起こる。人物も登場する。会話も交わされる。
しかし、それらが一つの物語として収束していく感覚が、なかなか得られない。
Aという出来事があった。
次にBという出来事があった。
そしてCという出来事があった。
時間は確実に進んでいる。
ところが、
AだからBが起こり、Bによって主人公が変化し、その変化がCを引き起こす
という因果の線が希薄なのである。
私はこういう小説を読むのが、あまり得意ではない。
「この場面にはどんな意味があるのだろう」
「これは何かの伏線ではないか」
「この人物は後で重要になるのではないか」
そんなことを考えながら読み進めるのだが、期待したような回収がなかなか訪れない。
ときには、小説というより誰かの日記や雑記を延々と読んでいるような感覚さえあった。
しかし読み進めていくうちに、少し奇妙なことに気づいた。
私がこの小説を読んで感じていることそのものが、小説の文字面に現れているのではないか。
「意味なんかないよ」
78ページに、こんな会話がある。
「意味なんかないよ」
とこたえたのだ。
「ないんですか」
「あるわけない」
「ほんとうですか」
「ない。」
もちろん、これは作品世界の中で交わされている会話である。
ところが、この場面まで読んできた私は、すでに別の意味で同じ問いを抱えていた。
「この小説には、いったいどんな意味があるのだろう」
という問いである。
出来事は次々と提示される。
けれども、それらが分かりやすい意味へと回収されていかない。
そんな読書を続けているところへ、
「意味なんかないよ」
という言葉が飛び込んでくる。
すると不思議なことが起こる。
本来なら登場人物同士の会話だった言葉が、まるで作品そのものから読者へ返された答えのようにも聞こえてくるのである。
「この場面には何の意味があるのだろう」
「この出来事は何につながるのだろう」
そう考え続けていた読者に、
「意味なんかないよ」
と小説そのものが答えているように感じられる。
「することなく」という停滞
84ページにも、私は似た感覚を覚えた。
「休みましょうよ」
という声は出なかった。
それでもやっぱりすることはなく……
作中人物が「することなく」時間を過ごしている。
しかし同時に、読んでいる私自身も、この小説がどこへ向かっているのか分からない。
何か大きな事件へ向かっているわけでもない。
謎が提示され、それが解決へ向かっているわけでもない。
主人公が明確な目標を持ち、それに近づいているわけでもない。
作中の時間が停滞している。そして読書する時間まで停滞している。
ここで二つが重なってくる。
普通、「小説を追体験する」と言えば、主人公の悲しみを読者も悲しく感じたり、主人公が見ている風景を頭の中に思い浮かべたりすることを意味するだろう。
しかし『しんせかい』で私が経験した追体験は、少し違っていた。
登場人物の経験ではなく、小説が持っている停滞そのものを、読書行為によって経験しているのである。
普通なら、文字は消えていく
小説を読むという行為について考えてみる。
たとえば、
「男が扉を開けると、部屋の中に女がいた」
と書かれていたとする。
読者は文字そのものをいつまでも眺めてはいない。
頭の中に男が現れ、扉が現れ、部屋が現れ、女が現れる。
やがて私たちは、紙の上に並んでいる文字を読んでいるということを忘れる。
文字が透明になり、その向こう側に物語世界が立ち上がる。
それが一般的な小説読書の一つのあり方だと思う。
ところが『しんせかい』を読んでいると、私はなかなか文字の存在を忘れることができなかった。
強い因果によって出来事が結びつかない。
大きな物語へと回収されない。
「これは何のために書かれているのだろう」と考えてしまう。
そのため、物語世界へ完全に没入するというより、
「私はいま、この文章を読んでいる」
という感覚がいつまでも残る。
最初、私はこれを作品の弱さだと思った。
物語世界が十分に立ち上がってこない。
だから退屈なのだ、と。
しかし最後まで読むと、この欠点のように感じていたものが、作品のあり方そのものと奇妙に接続してくる。
最後に、物語世界そのものが崩される
終盤では、月について語られる。
満月だったのか。
少し欠けていたのか。
そもそも月など出ていなかったのかもしれない。
さらには、夜ですらなかったのかもしれない。
そして最終的には、
「どちらでもよい。すべては作り話だ」(128ページ)
というところまで行ってしまう。
ここを読んだとき、それまで私が抱えていた違和感が、一気に別の姿を見せた。
普通の小説では、細部を積み重ねることによって虚構世界を強固にしていく。
月が出ている。
夜である。
人がそこにいる。
そうした一つ一つの記述を読者が受け入れることで、存在しない世界が頭の中に立ち上がってくる。
ところが『しんせかい』は最後になって、それを自分で壊してしまう。
月だったかどうかさえ、どうでもいい。
それまで読者が文字から作り上げてきた世界が、最後にもう一度「作り話」へ戻される。
私はここで、奇妙な反転を感じた。
普通なら、
文字 → 物語世界
と進む。
ところが『しんせかい』では最後に、
物語世界 → 文字
と戻されるのである。
「記憶」を書けば、それはもう作り話なのか
そして最後には、もう一つ重要なことが語られる。
遠く、薄くなってしまった「その時の本当」が、自分にとって作り話へ置き換えられた、あるいは自分で置き換えてしまった、という感覚である。
ここまで来ると、
「満月だったのか」
という問題は単なる情景描写ではなくなる。
過去について文章を書く。
しかし、過去そのものはもう存在しない。
残っている記憶から、言葉を選び、出来事を並べ、一つの文章へ変換する。
その瞬間、かつての「本当」は別のものになってしまう。
だから、
「本当に月が出ていたのか」
という問いに、もはや決定的な重要性はない。
書いてしまった時点で、それは「いま、ここ」に存在する文章だからである。
退屈だった、という感想を撤回する必要はない
ここで私は、『しんせかい』を「実は最初から面白かった」と言い直したいわけではない。
私は実際に、途中で停滞を感じた。
何のためにこの場面があるのか分からなかった。
「話が進まないな」と何度も思った。
その感覚を、
「これは芥川賞受賞作なのだから、きっと高度な技法なのだ」
として消してしまうのも違うと思う。
むしろ面白いのは、その逆である。
私は本当に停滞した。
本当に意味が分からなかった。
本当に「何を読まされているのだろう」と思った。
ところが最後まで来てみると、作中には「意味なんかない」という言葉があり、「することなく」という時間があり、最後には月が出ていたのかどうかさえ「どちらでも良い」とされてしまう。
つまり、
私が読書中に経験した「意味のなさ」「停滞」「物語世界の立ち上がらなさ」が、作品内部にそのまま存在していた。
ここに私は、この作品の不思議さを感じる。
内容を追体験するのではなく、「読むこと」を追体験する
『しんせかい』は、
「人生には意味などない」
と主張する小説なのだろうか。
私はそこまで単純には言いたくない。
むしろこの作品は、何かの思想を読者に説明するのではなく、その思想らしきものが生じる状況を読書経験として実行しているように思える。
「意味はない」と説明するのではない。
意味を容易には見つけられない文章を読ませる。
「時間は停滞する」と説明するのではない。
読者自身に停滞を感じさせる。
「記憶は作り話へ変わる」と説明するだけではなく、最後になって、それまで読者が信じていた虚構世界そのものを揺るがせる。
だからこれは、一般的な意味での「作中作」とは違う。
小説の中にもう一つの作品が存在する入れ子構造ではない。
むしろ、作品内部に書かれている言葉と、その作品をいま読んでいる私の経験とが重なってしまう。
私はそこに、一種のメタ的な構造を感じた。
そして読み終えた今も、
「満月だったのか」
「欠けていたのか」
「そもそも月なんて出ていなかったのか」
という問いは、どうでもいいようでいて、妙に頭に残っている。
『しんせかい』とは何だったのか。
その問いにも、作品の中から同じ声が返ってくるような気がする。
「意味なんかないよ」(78ページ)
そう言われてしまえば身も蓋もない。
けれど、その言葉を聞くために、私はここまでこの小説を読んできたのかもしれない。