「何が言いたいの?」が分からない小説を、どう読めばいいのか――『しんせかい』を読みながら

「何が言いたいの?」が分からない小説を、どう読めばいいのか――『しんせかい』を読みながら

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いま、山下澄人『しんせかい』を読んでいる。

ところが、読みながら何度も立ち止まってしまう。

「これは何の意味があるのだろう?」


人物が登場する。
何かが起こる。
会話が交わされる。
また別の出来事が起こる。

私はそのたびに、

「これは何かの伏線なのではないか」

「あとでこの出来事が効いてくるのではないか」

「この人物には何か象徴的な意味があるのではないか」

と考える。

ところが、読み進めても、なかなか答えが返ってこない。

Aという出来事があった。
次にBという出来事があった。
そしてCという出来事があった。

私には、ときどきそんなふうに見える。

A→B→Cという時間的な順序はある。しかし、AだからBが起こり、BによってCへ至るという因果の線が見えにくい。

だから困ってしまう。

「それで、何なのだろう?」

と。

私は「回収」を期待して小説を読んでいるらしい


『しんせかい』を読んでいて気づいたのは、作品についてというより、むしろ自分自身の読み方だった。

私は小説を読むとき、知らず知らずのうちに回収を期待している

冒頭に妙なものが出てきたら、

「きっと後で意味を持つのだろう」

と思う。

登場人物が不可解なことを言えば、

「この台詞が後半につながるのだろう」

と考える。

つまり、

  出来事A
 ↓
 出来事B
 ↓
 出来事C
 ↓
ああ、だからAが必要だったのか!

という読み方である。

これはミステリーに限った話ではない。

純文学であっても、私は「なぜ作者はここを書いたのか」を考える。

一見どうでもよさそうな食事の場面にも、人物造形上の意味があるのではないか。天候の描写にも、人物の心理との照応があるのではないか。

そうやって作品の内部に線を引いてきた。

ところが『しんせかい』では、その線を引こうとしても、するすると逃げていくように感じる。

少なくとも私が現在読んでいるところまでは、出来事を一つの意味へと回収する語りが前面には出てこない。

だから、私には雑記や日記を読んでいるように感じられる瞬間さえある

そして私は、こういう小説が苦手なのだと思う。

「分からない」のは作品のせいなのか、私のせいなのか


すると、今度は別の悩みが出てくる。

「自分の読み方が下手なのではないか」

というものだ。

もっと小説を読むのが上手な人なら、この出来事の配置から何かを読み取れるのではないか。

私には見えない構造が見えているのではないか。

そう考えると、自分の読み方そのものが疎ましくなってくる。

しかし、少し考え直してみた。

そもそも、

「すべての出来事には意味があり、最後にはそれが回収されなければならない」

という前提そのものを疑ってみてもよいのではないか。

「何を意味するか」ではなく「何と何が並んでいるか」


たとえば、

Aが起こった。
Bが起こった。
Cが起こった。

ここで私は、

「Aは何を意味する?」

「Bは何の伏線?」

「Cによって作者は何を言いたい?」

と考えてしまう。

しかし、別の読み方もできる。

「なぜAの隣にBがあり、その隣にCがあるのだろう」

と考えるのである。

これは似ているようで、かなり違う。

Aを何かの象徴に変換しなくてもいい。

Bを伏線として処理しなくてもいい。

Cを作品の「メッセージ」へ結びつけなくてもいい。

AとBとCが並べられたことで、自分の中に何が残ったのかを見る。

人物についても同じなのかもしれない。

「あの人物は主人公を成長させるために登場した」

と役割を与えてしまうのではなく、

「あの人はあんなことを言ったのに、こんなこともした。よく分からない人だった」

という違和感を、そのまま持っていてもいい。

「分からない」をただちに「分かる」へ変換しない。

そういう読み方である。

現実だって、伏線を回収してくれない


考えてみれば、私たちの現実の生活も奇妙なものだ。

朝、コンビニへ行った。

店員が妙なことを言った。

昼には知人から電話がかかってきた。

夜には雨が降った。

それらに必ず因果関係があるわけではない。

「あの朝コンビニへ行ったことは、夜の雨を象徴していたのだ」

などということもない。

昨日会った人が、私の人生の主題を体現する人物だったとも限らない。

それでも、それら全部が私の一日である。

もしかすると、私が「日記的だ」と感じていることそのものが、一つの手掛かりなのかもしれない。

小説は必ずしも、現実をきれいな因果関係へ整理するためだけに存在するわけではない。

因果によって整理される以前の、生の時間の流れを差し出す小説もあり得る。

そう考えると、『しんせかい』への見え方が少し変わってくる。

それでも私は、意味を探してしまう


とはいえ、ここで急に、

「なるほど。意味なんて探さなくていいんだ!」

と開眼したわけではない。

私は相変わらず、

「で、この場面は何なの?」

と思う。

伏線らしきものがあれば回収を待つし、奇妙な出来事があれば寓意を探す。

たぶん私は、構造を探すことそのものが好きなのだ。

だから『しんせかい』のような作品とは、どうも相性が悪い。

けれど、それでいいのかもしれない。

「自分には合わない」で本を閉じる前に、一度だけ読み方を変えてみる。

これからしばらく、

「これは何を意味するのか?」

ではなく、

「なぜ私は、この出来事だけを妙に覚えているのだろう?」

と考えながら読んでみようと思う。

意味を探すのは、読み終わってからでも遅くない。

A、B、Cが最後までA、B、Cのままかもしれない。

けれど、本を閉じたあとにAだけが妙に頭に残っているかもしれない。

そのとき初めて、

「なぜ、これが残ったのだろう」

と考えてみる。

『しんせかい』を読むことは、作品を読むだけではなく、「小説には意味があるはずだ」と考えている自分自身の読み方を読むことにもなっている。

いまのところ、私はまだこの作品をうまく読めている気がしない。

ただ、その「うまく読めなさ」も含めて、もう少し付き合ってみようと思っている。

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