羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』を読んでいて、最初に少し引っかかったことがありました。
物語の中心にある仕掛けは、意外なほど単純なのではないか。
主人公・健斗の祖父は「早く死にたい」と繰り返します。
そこで健斗は、祖父の望みをかなえるために、祖父が自分でできることまで先回りして介護する。身体を使わなければ筋力は衰える。そうやって祖父を徐々に死へ近づけようとする。
いわば、「死なせるための介護」です。
もちろん、倫理的にはかなり倒錯した発想です。
しかし小説を読み進めていくと、私は一つの疑問を持ちました。
結局、この小説は「死を望む祖父を過剰に介護する」という同じ構図を反復しているだけではないだろうか。羽田の処女作『黒冷水』、『走ル』がそうであるように。
新しい問題が次々と発生するタイプの小説ではありません。
ところが、登場人物と身体のモチーフを整理してみると、違った構造が見えてきました。
「死」と「生」の両側に主人公がいる
まず人物関係を極端に単純化してみます。
①祖父 ← 死 ← 健斗
②健斗 → 生・性 → 彼女
一方には老いてゆく祖父がいる。
健斗は介護によって祖父の身体から負荷を取り除き、結果として祖父を「死」の方向へ押していこうとします。
もう一方には彼女との肉体関係があります。
こちらにあるのは、若い身体、性欲、接触といった「生」の側です。
すると健斗は、ちょうどその中間にいることになります。
祖父――死――健斗――生・性――彼女
「死」と「生」が抽象的な観念として語られるのではなく、いずれも身体を通して配置されているところが面白い。
ここから筋トレというモチーフの意味も変わって見えてきました。
「筋トレ」と「過剰介護」は正反対の操作ではないか
健斗は自分の身体を鍛えます。
筋トレとは、身体にあえて負荷をかける行為です。
負荷をかける。
筋肉を使う。
身体が強くなる。
つまり、
負荷 → 使用 → 強化 → build
という方向です。
ところが祖父に対して健斗が行うことは、ほとんど正反対です。
祖父自身ができることまで代わりにやる。
身体を使わせない。
負荷を取り除く。
筋力を衰えさせる。
つまり、
負荷を除く → 不使用 → 衰弱 → scrap
となる。
ここでタイトルの『スクラップ・アンド・ビルド』が、かなり具体的な身体操作として立ち上がってきます。
健斗は、
自分には負荷を与えながら、祖父からは負荷を奪っている。
自分の身体をビルドしながら、祖父の身体をスクラップしようとしているわけです。
この対称性はかなり鮮明です。
介護という行為自体が反転している
さらに面白いのは、「介護」という言葉が普通持っている意味です。
一般に介護は、人の生活を支え、生を維持するために行われます。
ところが健斗は、それを逆方向に利用する。
生かすための行為によって、死なせようとする。
ここに作品の大きな逆説があります。
しかも健斗は祖父を放置するのではありません。
むしろ手厚く世話をする。
外から行動だけを見れば「よく介護している孫」にさえ見える。しかし、その行動を駆動している論理は「祖父を弱らせたい」です。
すると、
介護/放置
という単純な対立ではなく、
介護すること/死なせること
という、本来なら結びつきにくい二つのものが同じ行為の中に共存することになります。
ここがこの作品の不穏さなのでしょう。
祖父の「死にたい」は、本当に死にたいという意味なのか
もう一つ、小説を読みながら気になってくる問題があります。
祖父は「死にたい」と言います。
しかし、人間の発言と欲望はそれほど単純に一致するでしょうか。
「死にたい」と口では言いながら、自分の身体の不調を気にしたり、健斗に何かを要求したりする。
すると、
「死にたい」と言うこと
と、
実際に死を望むこと
との間に隙間が生まれてきます。
そして、その言葉を額面通りに受け取っているのは、むしろ健斗なのではないか。
健斗は、
「祖父自身が死を望んでいるのだから、その願いをかなえている」
という論理を組み立てることができます。
しかし、ここにはさらに厄介な問題があります。
それは本当に祖父のためなのか。それとも、健斗自身が祖父に死んでもらいたいのか。
介護される側だけではなく、介護する側の欲望まで入り込んでくる。
このあたりから、単純な「安楽死」の問題だけではなくなっていきます。
出来事が発展するというより、「同じ行為の意味」が変わっていく
ここまで読んで、最初に抱いた疑問に戻りました。
やはり、物語上の出来事だけを取り出せば、反復は多いと思います。
祖父が死にたいと言う。
健斗が世話をする。
祖父の身体について考える。
この基本構造そのものが劇的に変化し続けるわけではありません。
だから、
「結局、同じことを繰り返しているのではないか」
という第一印象自体を、私は完全には撤回しません。
ただ、その反復の意味が少しずつ変わる。
最初は、
死にたい祖父 → ならば死なせてやろう
というブラックなアイデアだった。
しかし次第に、
祖父は本当に死にたいのか。
という疑問が生じる。
さらに、
介護している自分は、祖父を死なせているのか、それとも生かしているのか。
という逆説が現れる。
そして、
これは祖父の願望なのか。それとも自分自身の願望なのか。
という問題にまで広がっていく。
つまりこの小説は、新しい事件を次々に投入して展開させるというより、
同じ行為を反復しながら、その行為に付着する意味をずらしていく
タイプの作品なのだと思います。
「何が起きるか」より「どう配置されているか」
私は小説を読むとき、どうしても「次に何が起こったのか」を追ってしまいます。
しかし『スクラップ・アンド・ビルド』の場合、それだけでは作品の設計が見えにくい。
治験入院によって、健斗自身が「祖父」になる
さらに読み進めていくと、「スクラップ/ビルド」という対立は、単純に
祖父=スクラップされる身体
健斗=ビルドする身体
という対応だけでは説明できないことが分かってきます。
その鍵になるのが、健斗の治験入院です。
健斗は治験のために入院し、自由を制限された生活を送ります。このエピソードが作中で一度きりではなく、別々に複数回描かれていることには注目してよいでしょう。
なぜなら、ここで健斗と祖父の位置関係が反転するからです。
それまでの健斗は、祖父を「動かさない側」でした。
祖父自身ができることまで代わりに行い、身体から負荷を取り除く。それによって祖父の身体能力を衰えさせようとする。
ところが治験では、今度は健斗自身が「動けるのに動けない身体」になる。
健康な若い身体を持ちながら、その自由を制限され、ただ寝ていなければならない。
そして作中には、非常に象徴的な一文があります。
「自宅での中途半端な祖父体験と違い、発狂しそうなほど過酷だった」(98頁)
ここでは作者自身が「祖父体験」と明示しています。
したがって治験入院を、単に健斗がお金を得るための脇筋として処理するのは難しい。
それまで外側から祖父の身体を管理していた健斗が、今度は管理される身体の側へ移動するのです。
「身体を管理する者」は誰なのか
こうして見ると、筋トレ・介護・治験という、一見ばらばらな三つの要素がきれいにつながります。
筋トレでは、
健斗 → 健斗自身の身体
自分で自分の身体に負荷を与え、鍛え、作り上げる。
過剰介護では、
健斗 → 祖父の身体
祖父から負荷を奪い、動かさないことで衰弱させようとする。
そして治験では、
病院・制度 → 健斗の身体
健斗自身が自由を制限され、他者によって身体を管理される。
つまり、
動かす身体
動かさない身体
動かされない身体
という変奏が作品全体に存在しています。
ここまで来ると、『スクラップ・アンド・ビルド』は「祖父を死なせようとする孫」の物語だけではなく、身体の主導権を誰が握るのかを繰り返し配置し直す小説としても読めるようになります。
「祖父は私なり、私は祖父なり」
この治験の場面が面白いのは、祖父と健斗という、それまで対照的だった二人の身体が接近することです。
健斗は若い。
筋トレをする。
身体を自分の意志によって作り替えようとする。
それに対して祖父は老い、身体能力を失いつつあり、介護される。
ところが治験入院によって、この対立が一時的に崩れます。
健斗もまた、
寝ているしかない。
自由に動けない。
他人に身体を管理される。
という祖父に似た位置へ置かれる。
いわば、
「祖父は私なり、私は祖父なり」
という身体的な接近が起こるわけです。
もちろん二人が完全に同一になるわけではありません。むしろ重要なのは、健斗が、それまで外側から合理的に扱っていた「動かない身体」を、今度は自分自身の身体によって疑似体験することです。
タイトルの意味も一方向ではなくなる
この構造まで見ると、
祖父=SCRAP
健斗=BUILD
とだけ読むのでは足りなくなります。
健斗は筋トレによって自分をBUILDする人間でありながら、治験では身体の自由を奪われ、祖父と同じ「動かない身体」へ近づいていく。
一方、祖父についても、健斗がいくらSCRAPしようとしても、単純に健斗の計画どおりにはならない。
だから『スクラップ・アンド・ビルド』というタイトルは、二人の人物に一語ずつ割り当てれば終わるものではありません。
SCRAPとBUILDの位置が、作品の中で入れ替わり、重なり合っている。
最初は「同じ過剰介護を繰り返しているだけではないか」と感じたこの作品ですが、身体に注目すると、その反復自体が少し違って見えてきます。
新しい事件を次々に起こして物語を発展させるのではない。
「誰が誰の身体を動かすのか」
「誰が誰の身体を動かさなくするのか」
「自分の身体は本当に自分のものなのか」
という一つの問題を、筋トレ、介護、治験という異なる状況へ置き換えながら反復している。
さらに反転する――祖父もまた「健斗」になる
治験入院によって健斗が「祖父」を疑似体験する。
ここまで読むと、『スクラップ・アンド・ビルド』の人物配置は一度反転したように見えます。
当初は、
祖父=SCRAPされていく身体
健斗=BUILDしていく身体
という対照がありました。
筋力を失っていく祖父に対して、健斗は筋トレによって自らの身体を鍛える。
ところが治験では、健斗自身が自由を制限され、横になって過ごすことを要求されます。
健斗はここで、外側から観察し、介護していた祖父の身体へ一時的に入り込む。
BUILDする健斗が、SCRAPされる祖父の側へ移動する。
しかし、この作品はここで終わりません。
さらに逆方向の運動が起こります。
健斗が祖父になるなら、祖父も健斗になる
健斗は「おしゃれ坊主」にします。
現代の若者である健斗にとっては、自分の外見についての選択です。
ところが、その姿を見た祖父は予科練を思い出す。
ここで現在の健斗の身体が、祖父の過去の身体を呼び起こします。
現在の祖父だけを見れば、
老いている。
身体能力を失いつつある。
孫から介護される。
すなわち、SCRAPされていく身体です。
しかし祖父にも当然、若かった時代があった。
第二次世界大戦中には身体を使い、訓練を受ける若者だった。急降下訓練という身体経験を持っていた。
すると、健斗のおしゃれ坊主をきっかけに、
現在の健斗 → 過去の祖父
という回路が開くことになります。
これは治験とは逆向きです。
治験では、
健斗 → 現在の祖父
でした。
今度は、
現在の祖父 → 健斗のような若い身体を持っていた過去の祖父
へ戻っていく。
二人の身体が、時間を越えて交差し始めます。
「祖父=SCRAP/健斗=BUILD」では足りない
こうなると、最初に立てた図式を修正しなければなりません。
最初は、
祖父=SCRAP
健斗=BUILD
できれいに説明できるように思えました。
しかし実際には、
現在の祖父=SCRAP
過去の祖父=BUILD
であり、
普段の健斗=BUILD
治験中の健斗=SCRAP
でもある。
つまり、SCRAPとBUILDは人物に固定された属性ではありません。
祖父の札に「SCRAP」、健斗の札に「BUILD」と書いて終わるような作品ではない。
一人の人物の中に、SCRAPとBUILDの両方が存在する。
しかも物語は、その位置を何度も入れ替えていきます。
鏡像ではなく「循環構造」
ここまで読むと、この作品を単なる対比構造と呼ぶだけでも不十分な気がします。
むしろ循環構造と考えたほうが分かりやすい。
健斗は筋トレをする。
身体を鍛え、自らをBUILDする。
その健斗が祖父を過剰に介護する。
祖父から身体的負荷を奪い、SCRAPへ向かわせようとする。
ところが治験に入れば、今度は健斗自身が自由を奪われ、祖父のような身体になる。
そして祖父は、健斗のおしゃれ坊主を見て予科練時代を思い出す。
老いた祖父の中から、かつて身体を鍛え、過酷な訓練を受けていた若者が現れる。
図式化すると、
健斗(BUILD)
↓
祖父をSCRAPしようとする
↓
治験によって健斗自身がSCRAP側へ
↓
健斗の姿から祖父の若い身体が想起される
↓
祖父の中にBUILDの過去が現れる
となります。
SCRAPとBUILDが反転する。
そして、もう一度反転する。
そのたびに、「誰がスクラップされる人間で、誰がビルドする人間なのか」という境界が曖昧になっていくのです。
身体だけでなく「時間」まで反転している
さらに面白いのは、この構造が身体だけの問題ではないことです。
祖父と健斗には大きな年齢差があります。
健斗は若者であり、祖父は老人です。
普通に時間を考えれば、
若さ → 老い
は一方向にしか進みません。
若い肉体をビルドし続けても、いずれ身体は衰えていく。
その意味では、
BUILD → SCRAP
という方向は、人間の身体そのものが持つ不可逆的な時間でもあります。
ところが小説の中では、その時間が何度も逆流する。
治験によって、若い健斗が老人のような身体状態を先取りする。
一方、予科練の記憶によって、老いた祖父が若かった身体へ戻る。
つまり、
若者が老いを先取りし、老人が若さを取り戻す。
もちろん現実に身体が若返ったり老化したりするわけではありません。
疑似体験と記憶によって、時間上では離れている二つの身体を作品が接近させているのです。
「AND」という接続にも意味が見えてくる
こう考えると、タイトルが『スクラップ・アンド・ビルド』であることも興味深くなります。
SCRAPかBUILDか。
どちらか一方ではない。
人間は自分を作りながら、同時に壊れていく。
壊れながら、別の何かを作ってもいる。
健斗は自分の身体をビルドしながら、治験では自由を奪われる。
祖父は現在の身体をスクラップされながら、その身体の内部には、予科練時代の若い身体の記憶が残っている。
そう考えると、
SCRAP/BUILD
という対立ではなく、
SCRAP AND BUILD
なのでしょう。
二つは分離できない。
「同じことの繰り返し」という最初の疑問に戻る
私は読み始めたとき、この作品に一つの疑問を持ちました。
死にたい祖父を、健斗が過剰介護によって衰弱させようとする。それを繰り返しているだけではないのか。
しかし読み進めると、少し違った姿が見えてきました。
確かに、事件が次々に起こる小説ではありません。
むしろ反復の多い作品です。
しかし、反復するたびに人物の位置が変わる。
介護する者が、介護される者の身体を経験する。
老いた者が、若かった自分を取り戻す。
身体を管理する者が、管理される者になる。
BUILDする者がSCRAPされ、SCRAPされている者の中からBUILDされていた過去が現れる。
したがって、この小説の反復は単純な円ではありません。
同じ場所へ戻っているように見えながら、一周するたびにSCRAPとBUILDの意味が少し変わっている。
『スクラップ・アンド・ビルド』の構造的な面白さは、そこにあるのではないでしょうか。
最初に立てた、
「祖父=SCRAP、健斗=BUILD」
という分かりやすい図式を、作品自身がいったん作り、壊し、そして別の形へ組み直していく。
そう考えると、小説の構造そのものが「スクラップ・アンド・ビルド」を繰り返しているとも読めるのです。
追記①(2026年9月14日20時21分)
小説家志望の方にとって、事実考証が大変ですよね。この本作にも瑕疵はあります。「それにしても、よく抱いてあやし続けられるものだと健斗は思う。赤子とはいえ、一歳半ともなれば五、六キロの重さはある」(79頁)正しくは「10キロほど」だろう。
感想サービスは、読解を構造的に分析する場合もありますし、今回のように一読者としての「感想」を示す場合もあります。本書は途中までしか読んでいませんが、以降更新していくつもりです。