小説(『サンショウウオの四十九日』)を読んでいると、「ここは説明しすぎではないか」と感じることがあります。
しかし、説明を削れば小説になる、というほど単純でもありません。
今回ある作品を読みながら、私は何度も、
「この作者は、もう十分に書けている。それなのに、そのあとで意味まで説明してしまう」
と感じました。
これは小説を書くうえで、とても興味深い問題だと思います。
観念的であること自体が悪いわけではない
この作品では、「自我とは何か」「二人の意識はどこまで独立しているのか」「死とは何か」といった大きな問題が扱われます。
結合双生児という設定を通して、「二人であること」と「一人であること」の境界を考えていく作品です。
したがって、哲学的・観念的になること自体は作品の性質でもあります。
問題は、その観念が長く説明されるときです。
人物が考えているというより、作者が人物を通して自我論や死生論を展開しているように見える箇所がある。
そうなると読者は、小説ではなくエッセイを読む姿勢へ少しずつ移ってしまいます。
ところが、具体物へ落とした瞬間に小説が立ち上がる
一方、この作者は観念を具体物へ変換したとき、とても印象的な表現をします。
たとえば、宗教や自我について長く悩んだ末、宗教書に救いを見いだせなかった人物が、その本を古本屋へ売ります。
値段は、たったの「50円」。
「宗教では私を救えなかった」と説明するより、はるかに強い。
巨大な宗教思想と、古本屋の50円。
この落差だけで、人物の失望が見えてきます。
同じように、「二人の意識の境界」という非常に抽象的な問題が、頭の中にちらつく「山椒魚の尻尾」という像へ変換される場面があります。
あるいは、それまでの深刻な悩みが「くしゃみひとつ」で吹き飛んでしまう。
ここでは観念が、
物・身体・行為・像
へと翻訳されています。
私はここに、小説の強さを感じました。
「父が骸骨に見える」という一撃
特に印象的だったのが火葬場の場面です。
亡くなった伯父の骨を拾う。その骨を父から受け取ろうとした瞬間、生きているはずの父が骸骨のように見える。
これは非常にうまい。
伯父の死を目の前にしたことで、
「父もいつか死ぬ」
という未来が一瞬だけ現在へ入り込んでくる。
ところが作者は「父もいつか死ぬのだと思って怖くなった」とは書かない。
父を骨にしてしまうのです。
読者はその像から意味を読み取れます。
だからこそ、その前に出てくる「父が死んでしまったように感じられ、涙が滲んだ」という直接的な心理説明は、私には少し惜しく感じられました。
作者は、すでにもっと優れた方法で書いているからです。
もう書けているのに、さらに説明してしまう。
この作品の弱点の一つは、そこにあるように思いました。
重たいものに、軽いものをぶつける
もう一つ面白かったのは、重い場面に必ずしも重い感情を重ねないところです。
父と伯父の身体的なつながり、腎移植、死後の骨について考える非常に重い場面で、主人公は「妙におかしかった」と感じます。
悲しい場面だから「悲しかった」。
死の場面だから「恐ろしかった」。
そう書くとは限らない。
むしろ、予想される感情から少しずらすことで、人間の複雑さが出てくることがあります。
逆に「恐怖が押し寄せた」「妙に寂しく聞こえた」と最後に感情を指定すると、それまでの描写から読者の中に生まれかけていた複数の読みが、一つに固定されることもあります。
モチーフは「繰り返せばよい」わけではない
火葬場では、子供たちが無邪気に遊んでいます。
死と子供。厳粛さと遊び。
効果的な対照です。
ところが四十九日の墓地でも、再び子供たちが遊んでいる。
ここでは少し食傷を感じました。
同じものを二度出せばモチーフになるわけではありません。
二度目に出てきたとき、一度目とは違う意味を獲得しているか。
反復だけではなく「反復+差異」があるか。
そこを見る必要があります。
この作品は「屋上屋を架す」ところがある
作品全体でも同じことが起きています。
父と伯父には胎児内胎児という関係がある。
主人公と瞬には結合双生児という関係がある。
そこへ伯父の死があり、父の死が予感され、さらに主人公たち自身の死について考える。
すべてが、
二人/一人、生/死、分離/融合
という中心問題につながっています。
構成としてよく考えられています。
ただし、重ねれば重ねるほどよいわけではありません。
一度目で「なるほど」。
二度目で「ここにもつながるのか」。
三度目で「徹底している」。
しかし、その先では「もう分かった」となる危険もあります。
この作品には材料が足りないのではありません。
むしろ、材料が豊富だからこそ、何を捨てるかが重要なのだと思います。
私が小説感想サービスで見たいもの
私は小説を読むとき、「面白かった」「感動した」だけで終わらせたくありません。
なぜ、この一文では感情が伝わったのか。
なぜ、別の一文では説明されたように感じたのか。
なぜ、この反復はモチーフとして機能し、こちらは重複して見えるのか。
そして何より、
作者が書いた文章から、実際に一人の読者である私に何が立ち上がったのか。
そこを丁寧に見ていきます。
作者の意図と私の読みが違うこともあります。
しかし、それは必ずしも失敗ではありません。
その「ずれ」の中に、作品をさらに強くする手掛かりが隠れていることがあります。
才能そのものを添削することはできません。
けれど、
すでに書けているものを見つけ、どこまで書けば読者に届くのかを一緒に考えることはできる。
今回の作品を読みながら、改めてそんなことを感じました。
私の小説感想サービスでは、作品を否定するためではなく、一人の読者として文章がどのように読めたのか、その読みがどの言葉・構文・配置から生まれたのかをできるだけ具体的にお伝えします。
「自分では何度も読み返して、もう作品との距離が取れない」
そんなときに、第三者の目を一つ入れてみる。
それが、次の推敲を考える材料になればと思っています。