小説を読むとき、私たちはついストーリーを追うことに集中します。
誰が何をしたのか。
登場人物は何を考えているのか。
この場面は次の場面にどうつながるのか。
しかし最近、又吉直樹さんの『劇場』を読みながら、それとは少し違った読み方があるのではないかと思いました。
文章と呼吸を合わせてみる。
そんな読み方です。
シリアスな場面を、シリアスなまま書き続けると
『劇場』には、劇団をめぐって人間関係が緊張する場面(27頁~)があります。
劇団員の一部が辞めたいと言い、それを慰留する。
当然、物語としては重たい場面です。
普通にこの場面を書くなら、
誰かが辞めたいと言う。
主人公が動揺する。
誰かが引き留める。
さらに険悪になる。
そんなふうに、修羅場を修羅場として書き切りたくなります。
しかし、それを続けていると、読み手は少し息苦しくなってくる。
ずっと荷物を持って歩いているようなものです。
そこで『劇場』では、店内のどこからともなく、
「焦げたのはわしが食う!」(28頁)
という声が聞こえてきます。
しかも似た言葉が何度か出てくる。
私はここを読んで、面白いと思いました。
劇団員が辞めるかどうかという本筋とは、ほとんど関係がないからです。
休憩には「違う方向」が必要なのではないか
ここで重要なのは、単に文章の強度を弱めているだけではないことだと思います。
シリアスな話を「少しだけシリアスな話」に変えても、読者が向いている方向は同じです。
荷物を軽くしただけで、まだ持っている。
本当に一度荷物を下ろすためには、別の方向を向く必要がある。
劇団の今後について話していたはずなのに、
「焦げたのはわしが食う!
」
という、どうでもいいと言えばどうでもいい日常の言葉が入り込んでくる。
そこで読者の意識が一瞬だけ本筋から離れます。
私はこれを、小説における「息継ぎ」のように感じました。
「少しだけ面白かった」という出口
『劇場』には、もう一つ興味深いところがありました。
主人公にとって野原は、ある意味で拠り所となる人物です。
ところが主人公が困っている、先の場面で、野原は目を合わせようともせず、助けようともしない。(34頁)
普通なら、
「心細かった」
「見捨てられたような気がした」
などと書きたくなるところでしょう。
ところが主人公から出てくるのは、
「少しだけ面白かった」(34頁)
という感情です。
ここでも、話そのものは前へ進んでいます。
野原が助けてくれないという事実は変わらない。
シリアスな場面が突然コメディーになったわけでもありません。
それでも、感情の向きだけがほんの少し横へずれる。
深刻な出来事に、深刻な感情だけを対応させない。
この小さな方向転換によって、文章に遊びが生まれているように感じました。
「焦げたのはわしが食う!」は、物語の外側から別方向のものを差し込む。
「少しだけ面白かった」は、物語の中にいながら、主人公の感情だけを少し違う方向へ逃がす。
方法は違います。
しかし、どちらにも共通しているのは、読者を一方向へ走らせ続けないことではないでしょうか。
読書中に集中が切れることは、本当に悪いことなのか
ここから私は、自分自身の読書について考えました。
本を読んでいるとき、私は必ずしも本だけに集中しているわけではありません。
突然、別のことを考える。
昔のことを思い出す。
少し疲れる。
文章が頭に入ってこなくなる。
また、ある一文を境に作品へ戻ってくる。
私たちはこうした状態を、
「集中力が切れた」
として否定的に考えがちです。
しかし、小説を書く側、あるいは小説を分析する側から考えるなら、これは必ずしも邪魔なものではないのではないでしょうか。
むしろ、
それこそが文章を読んだときの、生(なま)の一次体験なのではないか。
そう思うようになりました。
自分自身を「読者センサー」にする
もちろん、自分が退屈したからといって、
「ここは退屈な文章だ」
と即断することはできません。
その日の体調が悪かったのかもしれない。
単に自分の好みに合わなかっただけかもしれない。
だから、一度立ち止まります。
なぜ私はここで集中が切れたのだろう。
そう問いながら文章へ戻ってみる。
すると、
同じ種類の説明が続いていた。
感情がずっと同じ方向を向いていた。
緊張が続き、解除される場所がなかった。
そんな文章上の構造が見えてくることがあります。
逆に、
「ここで少し楽になった」
と思った場所を調べてみると、
「焦げたのはわしが食う!」
のような、一見どうでもいい文章が置かれていたりする。
そう考えると、読書中に生じた自分の感覚そのものが、小説を分析する材料になります。
文章には、読者の呼吸がある
小説には、ストーリーがあります。
文章のリズムがあります。
情報の強弱もあります。
しかし、それとは別に、
読者の呼吸のリズム
というものもあるのではないでしょうか。
シリアスな場面だからといって、シリアスな文章だけで埋め尽くす必要はない。
悲しい場面だから、すべてを悲しい方向へ向けなくてもいい。
ほんの一瞬、
「焦げたところは私が食う」
と聞こえてきてもいい。
頼りにしている人が助けてくれない姿を見て、
「少しだけ面白かった」
と思ってもいい。
本筋を壊すほど横道へ逸れる必要はありません。
ほんの少しだけ、ベクトルを変える。
それだけで読者は荷物を一度下ろし、息をつくことができる。
そして小説を読む側も、自分がどこで息苦しくなり、どこでふっと楽になったのかを無視しない。
物語だけを追うのではなく、自分の呼吸まで含めて小説を読む。
そんな読み方をしてみると、これまで「余分な一文」に見えていたものが、実は読者を最後まで運ぶための大切な一文だったことに気づくのかもしれません。
自分の原稿のどこで、読者は荷物を下ろせているでしょうか。
書いている本人は、ずっと息を止めたまま最後まで書き切ってしまいがちです。
一人の読者として、実際にどこで息をつけたか、どこで苦しくなったかをお伝えします。