小説の「テーマ」を探さなくてもいい――『鳥の夢の場合』のリフレインから考えたこと

小説の「テーマ」を探さなくてもいい――『鳥の夢の場合』のリフレインから考えたこと

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学び
小説を読むとき、私はつい「この作品のテーマは何だろう」と考えてしまいます。

学校の国語教育でも、

「作者が伝えたかったことは何か」
「この作品の主題は何か」

と考える機会が多かったように思います。

けれども最近『鳥の夢の場合』を読んでいて、小説のおもしろさは必ずしも「一つのテーマを深く掘り下げること」だけにあるのではない、と感じるようになりました。

同作には、こんな趣旨の言葉が繰り返し登場します。

あるはずのもんがないのとおなじ程度には、ないはずのもんもあるというわけ。(090頁)

また別のところでは、あることについて

それについてきかれたとき、私はそれを知らない。  

きかれなければ、私はそれを知っている。(091頁)

という、一見すると矛盾したようなことが語られます。

この二つは、まったく同じことを言っているわけではありません。

けれども、文章の動きはよく似ています。

Aである。けれども、Aではない。

一方を確定しようとすると、反対側が現れてくる。

こうした構造が作品の中で何度もリフレインされます。

一つの問いを「深掘り」しない


興味深いのは、同作がこの矛盾を取り上げて、

「なぜそのようなことが起こるのか」

と深く説明していかないことです。

たとえば「存在とは何か」「不在とは何か」と哲学的に掘り下げていくこともできたでしょう。

それも一つの小説の作り方だと思います。

ところが同作は、必ずしもそうしません。

説明する代わりに、同じような構造を別の形に変えて、何度も出してくる。

その変奏が、作品の後半になるにつれて効いてきます。

たとえば、蓮見という人物の生死です。

死んでいる。

でも、生きているように存在している。

初瀬は蓮見を殺したという。

しかし、遺体にはそれに対応する傷がない。

殺害場面らしき描写もある。

ところが、よく読むと、それが初瀬の頭に浮かんだ「イメージ」(084頁)である可能性も残されています。

ここでも、

生きている/死んでいる。

殺した/殺していない。

という二つの状態が、きれいに一方へ確定しません。

これは「謎解き」なのだろうか

普通なら、

「結局、蓮見はいつ死んだのか」

「初瀬は本当に殺したのか」

と答えを探したくなります。

私も最初はそう読んでいました。

しかし、同じような矛盾が何度も繰り返されるのを見ていると、少し違う読み方ができるのではないかと思いました。

この小説は、「どちらが正解なのか」を当てさせようとしているのではない。

むしろ、

どちらか一方に決めようとすると、もう一方が現れてくる。

そんな世界そのものを作ろうとしているのではないか。

少し禅問答のようでもあります。

「生きているのか、死んでいるのか」

と問われても、その問いの立て方自体が、この小説世界ではうまく機能しない。

そう考えると、それまで奇妙に見えていた場面同士が、少しずつ同じ波長で響き始めます。

テーマではなく「世界の法則」

ここで私は、小説の「テーマ」について考えました。

作品を読むと、

「これは生と死についての小説だ」

「記憶についての小説だ」

「人間の孤独を描いている」

などと、一つの言葉へまとめたくなります。

もちろん、それが有効な場合もあります。

でも、小説を一つのテーマに回収すると、取りこぼしてしまうものもある。

『鳥の夢の場合』のおもしろさは、

「生と死の境界とは何か」を説明することより、「境界が確定しない世界」を実際に読者へ経験させること

にあるのではないでしょうか。

つまり、「何を言っている作品なのか」ではなく、

「どんな法則で動いている世界なのか」

と考えてみる。

すると見え方が変わります。

同じ意味ではなく「同じ揺れ方」を繰り返す

さらにおもしろいのは、リフレインされるものが完全に同じ意味ではないことです。

ある/ない。

知っている/知らない。

生きている/死んでいる。

殺した/殺していない。

それぞれ扱っているものは違います。

ところが、

Aである/Aではない

という「揺れ方」が似ている。

私はこれを、この作品の通奏低音のようなものだと感じました。

主旋律として大きな声で、

「この作品のテーマは生と死です」

と鳴らすわけではありません。

物語は物語として進んでいる。

その下で、

ある/ない。

知っている/知らない。

生きている/死んでいる。

という低い音が、形を変えながらずっと鳴っている。

一回だけなら、ちょっと気の利いた逆説に見えるかもしれません。

しかし何度も変奏されることで、読者自身がその「揺れ方」に慣れていく。

そして後半で現実にはありそうもない出来事が起きても、

「この小説なら、そういうことも起こるかもしれない」

と思わされる。

読者の側が、いつの間にかその世界の波長に合わせられているのです。

現実世界と対応しなくても、小説世界は成立する
ここから、もう一つ考えました。

私たちは小説を読むとき、現実世界との対応関係を確かめようとします。

「実際にそんなことは起こるのか」

「人間は本当にそんな行動をするのか」

もちろんリアリティを考えるうえでは重要です。

しかし、小説にはもう一つ別のおもしろさがあるのかもしれません。

現実を材料にしながら、現実とは少し違った法則を持つ世界を、それ自体として成立させること。

現実世界では、死んでいる人間と生きている人間は区別されます。

ところが小説の中で、「ある/ない」という境界の揺らぎを何度も経験させられていると、死者と生者の境界まで揺らぎ始める。

そこで大切なのは、現実と完全に一致しているかどうかだけではありません。

その作品内部で、同じ波長が鳴り続けているか。

そこに小説世界の説得力が生まれるのではないでしょうか。

テーマを説明せず、読者に覚えさせる

もちろん、リフレインは使いすぎれば露骨になります。

何度も同じ言葉で、

「生と死は同じなのだ」

などと書けば、作者の主張が前面に出すぎてしまうでしょう。

だからこそ「変奏」が重要なのだと思います。

同じ言葉を繰り返すのではない。

人物を変える。

状況を変える。

身体について書く。

記憶について書く。

生死について書く。

それでも、その奥に同じ構造を忍ばせておく。

そうすると、読者は「作者の言いたいこと」を説明されなくても、作品を読み進めるうちに同じ感覚を何度も経験します。

言い換えるなら、

テーマを説明するのではなく、同じ形の違和感を何度も経験させることで、読者の身体にテーマを覚えさせる。

小説には、そんな作り方もあるのでしょう。

「この小説のテーマは何か」と考えるだけではなく、

「この小説は、どんな揺れ方を繰り返しているのか」

と考えてみる。

そうすると、これまでとは少し違った小説の読み方ができるような気がしています。

「惰性」もまた、別の場所で繰り返される

こうしたリフレインは、「ある/ない」「生きている/死んでいる」といった論理的なものだけではありません。

身体の動きにも、同じような反復があります。

作品のある場面では、長距離を走り終えた選手が、ゴールしたあともしばらく身体を動かし続けてしまうような感覚が語られます。(036頁)

ここでは、人間の身体がそれまでの運動を記憶していて、目的が失われたあとも「惰性」で動き続けるというイメージが使われています。

この比喩は、蓮見の「死んでいるのに、なお動いている」という奇妙な状態とも重なっていました。

ところが、ページをかなり読み進めたところで、よく似た身体の動きがもう一度現れます。

今度は信号待ちです。(093頁)

なかなか信号が青にならない。それでも身体は、それまで続けていた動作を惰性的に繰り返してしまう。

ここがおもしろい。

最初の場面だけなら、「死んでいるのに動いている」という異常な状態を説明するための、一度きりの奇抜な比喩として読むこともできます。

しかし、離れたページで同じ「惰性」が、今度はごく日常的な身体の動きとして現れる。

すると「惰性」は、一場面を説明するためだけの比喩ではなくなります。

この小説では、身体は意識や意思だけによって動いているわけではない。意思から少し離れたところでも、身体はそれまでの運動を続けてしまう。

そんな、この小説独自の身体観のようなものが浮かび上がってきます。

しかも作者は、「これは以前の長距離走の話と同じだ」と説明してくれません。

場面を変える。

ページを離す。

登場する状況も変える。

それでも、同じ運動だけをもう一度置いておく。

だから、一回目と二回目を結びつけなくても物語は読めます。しかし気づいた瞬間、離れていた二つの場面が急につながって見える。

これは単純な「伏線と回収」とも少し違うように思います。

伏線なら、一つ目の情報が二つ目によって意味を与えられたり、謎が解かれたりします。

しかし、ここでは何かが解決するわけではありません。

むしろ、

作品の離れた場所に、同じ波形がもう一度現れる。

そんな感じなのです。

先ほど取り上げた、

「ある/ない」

「知っている/知らない」

「生きている/死んでいる」

という反復を、私は論理のリフレインと呼びたくなります。

それに対して、この「惰性」は身体のリフレインです。

そして両者は、まったく無関係でもありません。

死んでいるのに動いている。

止まるはずなのに動き続けている。

どちらにも、「終わったはずなのに、何かがまだ続いている」という同じような揺らぎがあります。

ここまで来ると、『鳥の夢の場合』の世界観は、一つの大きなテーマを何度も説明することによって作られているのではないことが分かります。

論理では同じ矛盾を変奏し、身体では同じ運動を変奏する。

その一つ一つは小さい。

しかし離れた場所で何度も同じ波長のものに出会うことで、読者の中に少しずつ「この小説では、こういうことが起こる」という感覚が作られていく。

小説世界を統一する方法は、一つのテーマを徹底的に掘り下げることだけではないのでしょう。

同じことを繰り返すのではなく、同じ「揺れ方」を違う形で繰り返す。

『鳥の夢の場合』を読んでいると、そのリフレインそのものが、小説世界を下から支える通奏低音になっているように感じます。

自分の原稿の中にも、意識していない「揺れ方」の反復があるかもしれません。

それは、書いている本人には一番気づきにくい部分です。

一人の読者として、実際に読んでその反復を探します。

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