小説の講評をするとき、私ができるだけ避けたいことがあります。
それは、
「この人物の心理はおかしい」
「普通ならこんな行動はしない」
「ここでは、こう書いたほうがいい」
と、作品を一つの読み方へ導いてしまうことです。
もちろん、講評には「こう感じた」という読後感もあります。
しかし私は、それだけで作品を書き換える根拠にはならないと考えています。
「私はこう読んだ」と「だから直すべき」は違う。
たとえば、小説の中で父親が突然、息子に激しい言葉をぶつけたとします。
そこで、
「この父親がこんなことを言うのは不自然です」
と指摘することは簡単です。
けれど、本当にそうでしょうか。
人間はいつも一貫しているわけではありません。普段は温厚な人が突然怒ることもあれば、自分でも説明できない行動を取ることもある。
そして何より、小説にはさまざまな人物が登場します。
講評者自身の人間観に登場人物を合わせてしまったら、その人物が持っていた異物感や不気味さ、不可解さまで消してしまうかもしれません。
だから私は、
「私はこう読んだ」
ということと、
「だから、こう直すべきだ」
ということを分けて考えます。
この二つの間には、思っている以上に大きな距離があります。
私が見るのは「何が書かれているか」。
では、何を見るのか。
まず大切にしているのは、できるだけテキストそのものを見ることです。
たとえば、
「ここで人物の気持ちが変化している。しかし、その変化につながる記述が前段には見当たらない」
という指摘なら、比較的客観的に確認できます。
あるいは、
「この代名詞には二つの照応先が考えられる」
「この比喩では、前半と後半でイメージの方向が変わっている」
「この語を置くことで、読者はいったんAと理解したあと、後続する文章によってBと読み直す必要がある」
といったことも検討できます。
私はこうした、実際に書かれている言葉と、そこから生じる読者の認知との関係を細かく見たいと思っています。
違和感があっても、すぐには「直す」と言わない
文章を読んでいると、
「ん?」
と引っかかることがあります。
でも、私はその瞬間に赤ペンを入れたくありません。
なぜ引っかかったのかを考えます。
語彙の問題なのか。
視点の問題なのか。
比喩を構成する二つの対象の関係なのか。
前後の文章との衝突なのか。
それとも、作者が意図的に作った「異化」なのか。
一見すると大仰な表現でも、その人物にとって日常的な行為そのものが重荷になっていることを表現するためなら、その大仰さこそ必要なのかもしれません。
そうであれば、文章を「自然な日本語」に直した結果、作品固有の感触を失わせることがあります。
読みやすくすることと、小説をよくすることは、必ずしも同じではありません。
ここは特に慎重でありたいと思っています。
「何を意味しているか」だけではなく「どう読まされるか」
私は、認知言語学や文体論の考え方も参考にしながら文章を読みます。
たとえば、「真下」という一語があったとします。
「真下」は、それだけでは位置を完全には決められません。
《何の真下なのか》という基準になる対象が必要です。
ところが、その対象が文章のずっと後ろに出てきたらどうでしょう。
読者は「真下」という言葉に出会った段階では空間を確定できず、後続する情報を読んでから、先ほどの「真下」の意味を遡って組み立てることになります。
文章として間違っているとは限りません。
しかし、そこには小さな認知的負荷が発生します。
私は、
「この文章は間違っています」
ではなく、
「この語順にすると、読者にはこういう読みの処理が発生します。それはこの場面で意図したものでしょうか」
というところまで考えたいのです。
作者の作品を、講評者の作品にしない。
講評を細かくすればするほど、私は一つ怖いことがあると思っています。
講評者が作品を書き始めてしまうことです。
「私ならこうする」
を積み重ねていけば、文章は整うかもしれません。
しかし、それは誰の小説なのでしょうか。
小説には多義性があります。
ある人には不快だった表現が、別の人には強烈に残ることもある。
「説明不足」と感じる読者もいれば、その空白を面白いと思う読者もいる。
だから私は、自分の解釈を唯一の正解として作者へ返すことには慎重でありたい。
私が目指しているのは、
作品を「正しい読み」に直すことではなく、その文章が読者にどのような読みを誘発するのかを可視化することです。
「ここを直してください」ではなく、
「私はここで立ち止まりました。なぜなら、この言葉がこう働いているからです」
と伝える。
それを知ったうえで、
「これは狙った効果だから残す」
と判断するのも、
「そこまで読者を立ち止まらせたくないから直す」
と判断するのも、作者の自由です。
最後に作品を決めるのは、講評者ではなく作者です。
私は、その一線を大切にしながら小説を読みたいと思っています。