受賞作にも「引っかかる文章」はある――選考委員は小説の何を見ているのか

受賞作にも「引っかかる文章」はある――選考委員は小説の何を見ているのか

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文学賞の受賞作を読んでいると、ときどき不思議に思うことがあります。

選考委員は、小説のどこを見ているのだろう。

もちろん、これは「選考委員は文章をちゃんと読んでいるのか」という批判ではありません。

むしろ逆です。

受賞作を精読していると、文章の細部には意外なほど「引っかかり」が見つかります。

それでも作品は高く評価され、吉田修一選考委員は「文章のリズムも素晴らしかった」と評している。

だとすれば、文学賞における「文章がうまい」とは、一文一文に傷がないこととは違うのではないか。

そんなことを考えました。

精読すると、受賞作にも引っかかるところがある


私は最近、芥川受賞作品(『バリ山行』)をかなり細かく読んでいます。

すると、たとえば次のような文章が気になりました。

「ロープを垂らした崖もある刺激的なルート」(023頁)
という描写。

ロープ、崖、ルートという要素はあります。

しかし、ロープが崖のどこから垂れているのか、それを使って登るのか降りるのか、登山者がその場所でどのような身体運動をするのかが見えにくい。

名詞は揃っているのに、名詞同士の空間的な関係が分からないのです。

ほかにも、

「黙ったまま、しかしはっきりと頷いた」

という文章がありました。

おそらく作者が表現したいのは、

「言葉にはしなかった。しかし意思表示は明確だった」

という対照でしょう。

意味上の逆接は理解できます。

ただ、「黙る」と「頷く」は、本来対立する行為ではありません。人は黙ったまま頷くことができます。

そのため、「しかし」が作ろうとしている意味上の対立と、文法上で直接つながっている言葉との間に、わずかなズレを感じました。

また、

「ザックを降ろす」
「座る」
「脚を伸ばす」

という休憩時の動作が、

「座る→ザックを降ろす→脚を伸ばす」

という順序で書かれている場面(019頁)もありました。

もちろん、実際に不可能な動作ではありません。

しかし特別な意図がないのであれば、

「ザックを降ろす→座る→脚を伸ばす」

と、文章上の順序と身体運動の時間的順序を一致させたほうが、私は映像を作りやすい。

さらに、白くなった髪に「のせた」ハンチング帽を「被り直す」という描写。(022頁)

一つの帽子について、「のせる」と「被る」という二種類の身体関係が短い間に現れるため、帽子が単に髪の上に置かれているのか、すでに被られているのか、像がわずかに揺れました。

いずれも、致命的な破綻ではありません。

文法的に完全な誤りだと言い切れないものも多い。

普通に読み進めれば、通過してしまう程度のものです。

しかし精読して、一文ずつ頭の中で映像に変換していくと、私はところどころで立ち止まります。

そして、

「ふと例の含羞みを見せた」

という一文もありました。

ここでは「例の」はよく働いていると思います。

以前にも描かれた「含羞み」を「例の」と受けることで、単なる一回限りの表情ではなく、「この人物が以前にも見せた、あの独特の表情」として過去の描写を呼び戻すことができるからです。

一方で、私は「見せた」という動詞に少し引っかかりました。

「含羞みを見せる」という日本語そのものは成立します。

ただ、「ふと」という副詞が置かれていることで、この表情は意図的に相手へ提示したものというより、内面の照れや恥じらいが思わず顔に現れたものとして読めます。

そう考えると、

「ふと例の含羞みを浮かべた」

などとしたほうが、内面から自然に表情が立ち上がる感じと、「ふと」という副詞が噛み合うように私は感じました。

ここで重要なのは、「含羞みを見せた」が誤用だと言いたいわけではないことです。

「例の」はむしろ人物描写の反復として機能している。

そのうえで、一つの動詞を「見せた」から「浮かべた」に変えるだけでも、表情が意図的な提示として見えるのか、思わず表出したものとして見えるのか、その質感が微妙に変わる。

それでも「文章のリズムが素晴らしい」と評価される


ここが、私には面白いところでした。

これだけ細部を拾うことができる作品であっても、選考委員から文章そのものが高く評価されることがある。

だとすると、

文学賞における文章評価は、「一文一文に傷がないか」という減点方式ではないのではないか。

そんな仮説が浮かびます。

文章には、局所的な精度とは別の次元があります。

一つの段落をどう運ぶか。

場面から場面へどう移るか。

会話と地の文をどんなテンポで交互に置くか。

人物の声が作品を通じてどの程度一貫しているか。

長い作品を読んだとき、読者をどのような速度で最後まで運んでいくか。

そうしたものもまた、「文章のリズム」なのでしょう。

一文を顕微鏡で見るような読み方をすれば、小さな傷が見える。

しかし少し離れて作品全体を見ると、その文章が作り出している大きな流れが見えてくる。

選考委員が見ている「文章」は、私が一文ずつ精読するときに見ている「文章」より、もう少し大きな単位なのかもしれません。

「傷がある」と「文章が悪い」は同じではない


ここで私は、自分自身の講評についても考えました。

私は文章を読むとき、かなり細かいところで立ち止まります。

誰がどこに立っているのか。

そこから本当にその表情が見えるのか。

その接続詞は前後を本当に接続しているのか。

比喩によって身体の動きが見えやすくなったのか、それとも逆に見えにくくなったのか。

動詞の順序と実際の身体運動の順序は一致しているか。

こういう読み方には意味があると思っています。

しかし、それによって一つの危険も生まれます。

局所的な引っかかりを発見できることと、作品全体の価値を判断できることは別なのではないか。

一文の傷を十個見つけた作品が、一文の傷を二個しか見つけられなかった作品より劣っているとは限りません。

むしろ、非常に強い作品だからこそ、多少の局所的な粗さを抱えたままでも、読者を最後まで連れていけることさえあるでしょう。

逆に、一文一文が整っていても、作品全体として何も残らない小説もあり得ます。

これは、小説を読むときに忘れてはいけないことだと思います。

では、細部を見る必要はないのか


もちろん、私はそうは思いません。

今回挙げたような箇所を検討することで、

「なぜ、この文章で私は一瞬止まったのか」

を考えることができます。

視点の問題なのか。

空間配置なのか。

身体運動なのか。

接続詞なのか。

比喩なのか。

情報量なのか。

そこまで分解すると、単なる「なんとなく読みにくい」を、ある程度言葉にすることができます。

これは推敲や講評では有用です。

ただし、その細部を見る目を、そのまま作品全体の価値を測る物差しにしてはいけない。

ここを私は分けて考えたいと思います。

選考委員の読みから学べること


受賞作を精読していて、私は少し気が楽になりました。

新人賞に応募するとなると、

「この一文は大丈夫だろうか」

「この比喩は変ではないだろうか」

「ここで接続詞を使っていいのだろうか」

と、細部が際限なく気になってきます。

もちろん推敲は必要です。

気づいた違和感を検討することにも意味があります。

しかし、受賞した作品にさえ、精読すれば私が立ち止まる箇所はある。

それでも選考委員は、その作品の文章を高く評価することがある。

ここから少なくとも私が学べるのは、

小説は「傷が一つもない文章」を作る競技ではない

ということです。

細部を見る。

けれど、細部だけを見ない。

一文の精度を上げる。

けれど、一文を磨くことによって作品全体の呼吸を殺さない。

そして最後には、

「この作品は何を描こうとしているのか」

「人物は生きているか」

「作品全体として読者に何が残るのか」

という大きなところへ戻ってくる。

受賞作の「傷」を探すこと自体が目的なのではありません。

受賞作にも傷があると知ったうえで、それでもなぜこの作品が評価されたのかを考える。

そこまで読んで初めて、新人賞の受賞作を読むことが、自分の小説を書くための勉強になるのではないかと思っています。

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