小説を読んでいると、何でもない描写が何度も現れることがあります。
雨が降る。
食事をする。
窓を見る。
同じ言葉を口にする。
そして今回、私が読んでいた小説(又吉直樹『劇場』)で気になったのが、
「歩く」
という行為でした。
最初は本当に何でもない描写に思えました。
ところが読み進めていくうちに、「歩く」という身体的な行為が、人間関係そのものと重なって見えてきたのです。
「理想的な速度」で歩く二人
作中には、主人公が沙希について、
「理想的な速度で歩いてくれた」(49頁)
と感じる場面があります。
主人公は、自分より速く歩く人も嫌いだし、遅く歩く人も嫌いだと言います。
同じ速度で歩いてくれる人が好きなのです。
ここだけなら、
「気の合う二人なのだな」
くらいに読めます。
ところが、その後にも「歩く」が繰り返し登場します。
早希の学校の友達らしい人たちが前から歩いてくる。(73頁~)
すると主人公は嫌な予感を覚え、歩く速度を遅くしたり、立ち止まったりしてしまいます。
これは相手と歩調を合わせるためではありません。
会いたくないから、身体が前へ進まなくなる。
二人だけなら自然に歩ける。
しかし、彼女の社会的な人間関係が入ってくると、主人公は同じようには歩けなくなる。
「歩く速度」が、二人の関係や社会との距離を表しているように見えてきました。
小学校の遠足でも「歩く」
さらに読み進めると、主人公は小学生のころの遠足について語ります。(80頁~)
主人公は特別に歩くのが遅かったわけではありません。
それなのに、いつの間にか前方に誰もいなくなり、最後尾を教頭先生と二人で歩いていました。
これには妙なリアリティがあります。
「ああ、こういう子いたな」
と思いました。
クラス全体から少し遅れて、先生と二人で歩いている子。
決して大事件ではありません。
だからこそ、記憶に引っかかります。
そして、ここでも「歩調」が出てきます。
主人公はみんなとは歩調が合わなかった。
一方、教頭先生とは一緒に歩くことができた。
ただし、
本当に二人の歩調が合っていたのでしょうか。
もしかすると、教頭先生が子供である主人公に歩調を合わせてくれていただけなのかもしれません。
この疑問が出てくると、先ほどの沙希との関係まで違って見えてきます。
「歩調が合う」と「合わせてもらっている」は違う
沙希は主人公にとって「理想的な速度」で歩いてくれる人でした。
では、二人は自然に歩調が合っていたのでしょうか。
それとも、
彼女が主人公に合わせてくれていたのでしょうか。
外から見れば、どちらも同じです。
二人の人間が並んで歩いている。
速度も同じ。
けれども、その内実はまったく違うかもしれません。
これは実際の人間関係にも当てはまります。
「私たちは気が合う」
と思っていた関係が、実は片方がずっと相手に合わせて成立していた、ということもあります。
興味深いことに、主人公が遠足の話をすると、女性は教頭先生について、
「いい教頭先生だね」(81頁)
と笑います。
つまり彼女もまた、主人公の速度に付き合って歩いた人を肯定的に見ている。
自分と一緒に歩いてくれる人。
自分の速度に付き合ってくれる人。
それが「いい人」であるという感覚が、二人の間で共有されているようにも読めました。
歩けなかった経験が、創作になる
遠足のエピソードには、もう一つ面白いところがあります。
主人公は後日、その出来事を作文にして発表します。
すると、みんなが笑ってくれます。
ここには「歩く」とは別の線も見えます。
遠足では、主人公は集団から離れてしまった。
しかし、
集団から離れてしまった経験を言葉にしたら、その言葉によって集団とつながることができた。
ということです。
これは創作の原型のようにも思えました。
みんなとうまく歩けなかった。
その自分を観察する。
経験を言葉に変換する。
すると、その言葉が他人に届く。
「ずれてしまった経験」が、作品になることで人との接点へ変わっているのです。
だから、この遠足の場面を、
「歩く=人間関係」
だけで処理してしまうのも、もったいない気がします。
「歩く」は人生のメタファーなのか
ここまで読んだところで、私はレイコフとジョンソンのメタファー論を思い出しました。
私たちは、
「歩調が合う」
「歩調を合わせる」
「人生をともに歩む」
「別々の道を歩く」
といった表現を、ごく自然に使います。
人間関係や人生という抽象的なものを、「歩く」「道」「方向」といった身体的な経験によって理解しているわけです。
今回の小説が面白いのは、
「二人は人生の歩調が合っていた」
などと書いていないところです。
本当に歩かせている。
二人で歩く。
速度が合う。
他人が現れると速度が変わる。
集団から遅れる。
誰かが一緒に歩いてくれる。
具体的な身体経験を何度も描いた結果として、読者の側に「人間関係の歩調」という抽象的な読みが生まれてきます。
最初から比喩を書くのではなく、具体を積み重ねた結果として比喩が立ち上がってくる。
創作する側から見ると、かなり興味深い方法です。
しかし、一つの読みを発見すると危険でもある
ここで私は、別の問題に気づきました。
一度、
≪歩く=人生や人間関係における伴走≫
という読みを発見してしまうと、その後に登場するすべての「歩く」を、この枠組みの中で読みたくなってしまうのです。
歩く。
「あ、また人間関係だ」
立ち止まる。
「あ、関係が止まったんだ」
速度がずれる。
「あ、心の距離が開いたんだ」
こうなってくると、読みはどんどん自己強化されていきます。
作品を読んでいるはずなのに、いつの間にか自分が作った解釈を確認するために作品を読んでいる状態になりかねません。
一つの読みは、一つの「レンズ」にすぎない
遠足の場面をもう一度考えてみます。
「歩調」という読みを外せば、
集団から少し外れてしまう子供の姿。
教頭先生との偶然の親密さ。
植物への水やりを通じて仲良くなった二人。
失敗談を作文にしたらクラスメートが笑ってくれた経験。
そこから始まる創作への関心。
いくつもの線が見えてきます。
ところが、
「これは歩調のメタファーだ」
と確定してしまえば、それらをすべて一本の線へ回収してしまう危険があります。
だから私は、文学作品の構造を読むとき、
「これは○○を意味する」
と断定するより、
「○○という読み方をすると、これらの場面がつながって見える」
くらいにしておいたほうがいいのではないかと思いました。
一つの読みは、作品の正解ではありません。
作品を見るためのレンズの一本です。
レンズをかけることで、それまで見えなかったものが見える。
しかし、レンズそのものにも色がついている。
読めるようになると、読めなくなるものがある
これは小説に限った話ではないと思います。
一つの理論、一つの概念、一つの解釈を手に入れると、それまでバラバラだったものが一気につながります。
「ああ、そういうことだったのか」
という瞬間があります。
これは読書の大きな快感です。
しかし、その瞬間から、
その理論では見えないものが見えなくなる。
ということも起こります。
だから、
「この読みは正しいか」
だけではなく、
「この読みを採用したことで、私は何を見えるようになり、何を見えなくしているのだろう」
と、ときどき問い直してみる。
それもまた、作品を読むということなのかもしれません。
一つの読みが確立した瞬間は、読解の終点ではない。
むしろ、
そこから別の読みを探し始める出発点なのだと思います。
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