砂川文次『ブラックボックス』を読んだ。
読み終えて最初に浮かんだ感想は、少し変なものだった。
退屈ではなかった。けれど、引っかからなかった。
かなりスムーズに読めたのである。
主人公はメッセンジャーとして自転車で街を走っている。作品では、メッセンジャーとはどういう仕事なのか、その仕事を取り巻く環境が説明されていく。
後半になると舞台は刑務所へ移る。
そこでも刑務所での生活や言葉が説明される。たとえば刑務官を「おやじ」「おやっさん」と呼ぶ(143頁)、といったことを私はこの作品で知った。
読んでいて、
「そうなんだ」
と思う。
そして、そのまま次へ進む。
この「そうなんだ」が、私の『ブラックボックス』の読書体験をよく表している気がする。
説明は理解させてくれる。しかし、立ち止まらせてはくれない
説明的な文章そのものが悪いわけではない。
むしろ『ブラックボックス』は、それによって非常に読みやすくなっている。
メッセンジャーの仕事を知らなくても読める。刑務所の生活を知らなくても読める。必要な情報を作品が順番に渡してくれるからだ。
しかし、その説明がある程度まとまって続くと、
「なるほど」
「そういう仕事なのか」
「刑務所ではそう呼ぶのか」
と情報を受け取り、そのまま通過してしまう。
ここで以前読んだ古川真人『ニムロッド』を思い出した。
『ニムロッド』にも観念的な話や説明は出てくる。しかし、その流れの途中に「おかめ蕎麦」のような具体物が入ってくる。
抽象的な話をずっと聞かされていたところへ、突然、食べ物が置かれる。
そこで文章の手触りが変わる。
説明――説明――説明――説明、
ではない。
説明――説明――おかめ蕎麦――説明、
となる。
たったそれだけでも、文章に凹凸が生まれる。
一方、『ブラックボックス』を読んだ私の感覚では、説明の道路がかなり長く、まっすぐに続いていた。
だから迷わない。
しかし、迷わないからこそ立ち止まることも少なかった。
「読みやすい」と「引っかかる」は違う
ここで私は、小説を書くうえで一つ重要なことに気づいた。
読みやすさと、読者の記憶に引っかかることは別なのではないか。
読みにくい小説は、もちろん困る。
一ページ進むだけで疲れてしまい、
「もういいかな」
と思って本を閉じてしまうこともある。
『ブラックボックス』には、それがなかった。
むしろ逆だ。
するすると読める。
次のページへ行くことにほとんど抵抗がない。
これはかなり大きな長所だと思う。
それでも私は、ときどき小説には「抵抗」も必要なのではないかと思う。
奇妙な比喩でもいい。
突然現れる具体物でもいい。
人物の意外な一言でもいい。
それまで読んできたものの意味を少し変えてしまう出来事でもいい。
「ん?」
と読者の指を一瞬止める何か。
文章の道路に、小さな段差を作る。
その段差を越えるとき、読者は初めて自分から作品について考えるのかもしれない。
説明を削るだけでは解決しない
ここから得られる教訓は、
「説明文を減らせばいい」
という単純なものでもないと思う。
説明を全部削れば、今度は何が起きているのか分からなくなる。
大切なのは、説明の「量」だけではなく、説明が同じ調子でどれくらい連続しているかを見ることなのだと思う。
説明が続いたら具体物を置いてみる。
知識が続いたら身体感覚へ戻ってみる。
抽象的な思考が続いたら会話を入れてみる。
逆に具体的な出来事ばかりが続いているなら、一度立ち止まって人物に考えさせてもいい。
つまり、
文章にも速度の変化を作る。
これが今回、自分の小説に持ち帰りたいことだった。
主人公だけでなく、私まで自転車に乗っていた
『ブラックボックス』の主人公は自転車で東京を走る。
止まらない。
ペダルを踏む。
前へ進む。
私の読書も、少しそれに似ていた。
文章は読みやすく、ページは次々に進んでいく。
退屈して本を閉じることもない。
しかし、
「あれ?」
と思ってブレーキを握る場所も、それほど多くなかった。
気がつけばかなり先まで来ている。
主人公だけではない。読者である私まで、自転車で作品の中を滑走していた。
それが『ブラックボックス』という作品にとって長所なのか短所なのか。
おそらく、簡単には決められない。
ただ、自分が小説を書くときには覚えておきたい。
読者を前へ運ぶ推進力は必要だ。
でも、ときには景色を見てもらうために、ペダルを止めてもらう必要もある。
読者を走らせる文章と、読者を立ち止まらせる文章。
その両方をどう配置するか。
今回『ブラックボックス』を滑走するように読み終えて、そんなことを考えた。
読みやすい原稿と、記憶に残る原稿は、必ずしも同じではありません。自分の原稿が、読者をどこで走らせ、どこで立ち止まらせているか。一人の読者として、実際に読んで確認します。