小説を書いていると、どうしても「説明」が必要になる場面があります。
たとえば、ビットコインを題材にした小説を書くとします。
読者全員がビットコインについて詳しいわけではありません。そのため、物語を理解するうえで必要な知識を、どこかで説明しなければならない。
しかし、ここに難しさがあります。
説明は、基本的につまらなくなりやすい。
もちろん、説明そのものを比喩などによって分かりやすくする方法はあります。
けれど、それでも説明が何段落も続けば、小説がいつの間にか「ビットコイン入門」のようになってしまいます。
そこで重要になるのが、私は「読者にどこで息継ぎをさせるか」という感覚だと思っています。
ある小説(『ニムロッド』)を読んでいて、面白い場面がありました。
ビットコインについて説明する場面で、作者は説明を延々と続けません。
途中で主人公を蕎麦屋に入らせます。
そこで主人公は「おかめ蕎麦」という耳慣れないメニューを見つけ、好奇心に誘われるまま注文する。
たったそれだけの、小さなエピソードです。
しかし、これが効いている。
それまで読者は、ビットコインという抽象的な概念を理解するために頭を使っています。
そこへ突然、
「おかめ蕎麦」
という具体的なものが現れる。
「それって、どんな蕎麦なんだろう?」
そんな小さな好奇心が生まれます。
ここで読者の頭が、いったん説明から離れるのです。
いわば箸休めです。
情報量を減らすのではなく、情報の種類を変える
この場面から学べるのは、単純に「説明を短くしましょう」ということではないと思います。
作品によっては、どうしても長い説明が必要になります。
そのとき、
情報量を減らすのではなく、情報の種類を途中で切り替える。
という方法があります。
抽象的な説明が続いたら、具体物を出す。
知識が続いたら、人物を動かす。
理屈が続いたら、食べ物や風景を入れる。
重要な情報が続いたら、一見どうでもいい日常を挟んでみる。
そうすることで、読者は一度呼吸できます。
しかも「おかめ蕎麦」の場面は、単なる休憩として挿入されているだけではありません。
耳慣れないものを見つけて、
「なんだろう?」
と思い、注文してみる。
そこには、その人物のちょっとした好奇心も表れています。
つまり、説明を休ませながら、同時に人物も描いている。
ここに書き手の技術を感じました。
「なくてもいい文章」が、小説を生かすことがある
これは、別の文章を読んでいたときにも感じたことです。
いつもならすぐにiPhone8で調べるところだけど、バッテリーがなくなっていた。(『ニムロッド』12頁)
筋だけを考えれば、なくても成立する文章かもしれません。
けれど、こういう何でもない一文が妙にリアルなのです。
現実の人間も、いつも物語に必要なことだけをしているわけではありません。
調べようとしたら充電がない。
知らない蕎麦を見つけたから注文してみる。
そんな些細な出来事が、私たちの日常には無数にあります。
小説でも、本筋だけを効率よく進めればよいとは限らないのでしょう。
私は原稿を読むとき、つい、
「この文章は必要なのか」
「削れるのではないか」
と考えてしまいます。
でも最近は、もう一つ問いを加えたほうがいいと思うようになりました。
これは本当に不要な文章なのか。
それとも、読者を呼吸させるための文章なのか。
説明が必要な場面ほど、説明の巧さだけではなく、説明からいったん離れる巧さも問われる。
読者にどこで息を吸わせるのか。
そこにもまた、書き手の力が現れるのだと思います。
自分の原稿の中で、どこが読者にとっての「箸休め」になっているか、書いている本人にはなかなか分かりません。
息継ぎが足りているか、逆に説明が続きすぎていないか。一人の読者として、実際に読んで確認します。