村田沙耶香『コンビニ人間』を読み進めている。
前回は、この小説が意外なほど「説明する小説」であることについて書いた。
意味を読者に預けるというより、重要なところでは何度も意味を確定する。そのため、ときには語りすぎにも感じられる。しかし、それこそが『コンビニ人間』の圧倒的な読みやすさを生み出しているのではないか。
今回はさらに読み進めるなかで気づいた、古倉という人物の観察能力、変化と同一性、そして白羽との対照について考えてみたい。
古倉は、本当に「人間が分からない人」なのか
古倉は「普通」が分からない。
そのため、コンビニというマニュアル化された世界に入り、周囲の店員を観察し、その話し方や振る舞いを自分に取り込んでいく。
ここだけを見ると、
自分では社会的な振る舞いを作れないから、他人を模倣する人物
と理解できる。
ところが読み進めると、少し引っかかる描写が出てくる。
古倉は、人が誰かを見下しているときの「目」を非常に細かく観察する。
そこに反論への怯えがあるのか、警戒があるのか、あるいは相手が反発してくれば受けて立とうとする好戦性があるのか。さらには、無意識に人を見下している場合の優越感や快感まで読み取ろうとする。
これは相当に鋭い。
単に、
「この人は怒っている」
という程度ではない。
表情の向こうにある複数の心理状態を分類し、かなり精緻に意味づけている。
ここには少し人物造形上の継ぎ目を感じた。
問題は「発達特性」ではなく、作品内部の一貫性
もちろん、
「発達上の特性を持つ人物なら、人の表情をこんなに細かく読めない」
などと一般化することはできない。
人によって特性はまったく異なる。
問題にしたいのは診断ではなく、この小説の古倉という人物として一貫しているかということだ。
これまでの古倉にも高い観察能力はあった。
同僚の話し方を観察する。
服装を観察する。
身振りを取り込む。
複数の人物を「ミックス」して、自分の話し方まで作る。
ただし、それらは基本的に、
「普通に振る舞うための観察」
だった。
ところが、人を見下している目についての描写では、観察能力がさらに一段階進み、他者の複雑な内面を読み解く心理洞察力にまでなっている。
ここまで来ると、一瞬だけ、
古倉が観察しているというより、作者の人間観察を古倉に語らせているのではないか
という感覚も生じる。
もちろん、逆の読みもできる。
古倉は人間が見えないのではない。
むしろ人間を異常なほど観察している。
それでも、
「では、自分はどう振る舞えば正解なのか」
を決められない人物なのだ、と。
このように考えれば、かなり整合する。
「変わらない」とは、どういうことなのか
一方で、かなり優れていると思った描写もあった。
古倉自身は、昔とは違う人間になっているという感覚を持っている。
当然である。
周囲の人間の言葉や振る舞いを少しずつ自分へ取り込んできた。
昨日の古倉と今日の古倉は、完全に同じではない。
そして、ここでコンビニの商品が重なってくる。
コンビニの商品も入れ替わり続ける。
新商品が入る。
売れない商品が消える。
季節によって棚が変わる。
店員も変わる。
店長も変わる。
それでも、外から見れば「同じコンビニ」である。
古倉も同じだ。
内部では絶えず部品が交換されている。
それなのに周囲からは、
「18年間ずっと変わらない人」
として見られる。
ここには、「変わらない」とは何なのか、という面白い問題がある。
変化し続けることで、同じものであり続ける
これは少し「テセウスの船」の問題にも似ている。
船を構成する木材を一枚ずつ交換していったとき、すべて交換されたあとでも、それは同じ船なのか。
コンビニも似ている。
商品も店員も店長も入れ替わる。
それでも同じコンビニとして存在する。
むしろ、コンビニは変化し続けるからこそ、同じコンビニであり続けられるとも言える。
18年前の商品をそのまま並べ続けていたら、その店はとうに時代から取り残されているだろう。
古倉についても同じことが言える。
他人の話し方を取り入れる。
服装を取り入れる。
振る舞いを取り入れる。
「私」を構成するものは絶えず入れ替わっている。
それでも社会は彼女を、
「ずっと変わらない古倉」
として見る。
ここで「世界の部品」という、この小説で何度も使われてきたモチーフにも別の意味が生まれる。
古倉は世界を構成する「部品」である。
しかし同時に、古倉という部品そのものも、他人から取り込んだ無数の部品によって構成されている。
この入れ子構造は面白い。
白羽は古倉と反対方向にずれている
そして白羽が登場すると、この作品はさらに面白くなる。
古倉も白羽も、社会の「普通」から少しずれている。
しかし、二人は同じ方向へずれているわけではない。
むしろ正反対だ。
古倉は、コンビニの規範を徹底的に取り込む。
マニュアルを覚える。
周囲の店員を模倣する。
店の要求に身体を合わせる。
つまり、
規範を過剰に内面化する人
である。
白羽は逆だ。
コンビニの内部にいながら、その規範に入り込まない。
この違いをうまく見せている場面がある。
「お中元」のポスターを見つめる白羽
白羽が何かを喋り続けている。
しかし、その視線の先にあるのは、壁に貼られた「お中元」の目標達成を呼びかけるポスターである。
この描写がいい。
「白羽はコンビニの仕事に馴染んでいなかった」
とは書かない。
「店の売上に関心がなかった」
とも説明しない。
ただ、
コンビニの売上目標を象徴するポスターを見つめながら、別のことを喋り続けている人物
を置く。
古倉なら、そのポスターをコンビニから発せられた指令として受け取るだろう。
「売らなければならない」
と、自分の行動へ接続する。
しかし白羽は、ポスターの真正面にいながら、その意味の内部には入っていない。
コンビニの中にいるのに、コンビニの外側に立っている。
この空間的な描写だけで、白羽の人物像が見えてくる。
これは『コンビニ人間』が説明を重ねる箇所とは対照的である。
こういうところでは、村田沙耶香は説明しない。
物と人間の配置だけで見せる。
古倉はコンビニの外へ出られない
二人を並べると、きれいな対照になる。
古倉は、
コンビニの外側へ出られない。
白羽は、
コンビニの内側へ入れない。
古倉はコンビニを自分の身体へ取り込む。
白羽はコンビニに身体を置きながら、その価値体系から距離を取る。
二人とも「普通」ではない。
しかし、
古倉=規範への過剰適応
白羽=規範への不適応
という対照になっている。
ここまで来ると、白羽は単なる「嫌な新人」ではなく、古倉という人物を反対側から照らす存在として機能し始める。
「注意される」ではなく「修復される」
そして、さらに面白い言葉が出てくる。
白羽の勤務態度について、古倉は店長から、
「修復されますよ?」(66頁)
という趣旨のことを言う。
ここは非常に面白かった。
普通なら、
「店長に注意されますよ」
でいい。
「叱られますよ」
でも意味は通じる。
しかし古倉は「修復」と表現する。
この一語によって、突然コンビニ全体が巨大な機械のように見えてくる。
コンビニ=機械
店員=部品
正しい勤務=正常作動
マニュアルから外れた行動=故障
店長による指導=修復
という比喩体系が、一つの動詞から立ち上がる。
これはうまい。
「部品」「歯車」と違って、今回は説明になっていない
以前の記事では、「正常な部品」「世界の歯車」といった似たモチーフが何度も繰り返されることについて、少し食傷気味になると書いた。
しかし、この「修復」には同じ印象を受けない。
なぜか。
主題を説明するために比喩を置いているのではなく、人物が実際に使用する一語の中へ主題が埋め込まれているからだ。
「古倉にとってコンビニ店員とは機械の部品なのです」
とは説明しない。
古倉に、
「修復されますよ?」
と言わせる。
読者がそこから、
「この人は店員を故障可能な部品のように見ているのか」
と考える。
以前、私はこの作品について「意味をパッケージして渡してくれる小説」だと書いた。
しかし、この「修復」はその逆である。
一語を置き、その意味を読者に展開させる。
私はこういう文章のほうが好きだ。
古倉は、コンビニの論理を他人に適用する側になった
しかも「修復」という言葉には、人物造形上の意味もある。
古倉はもともと、自分自身をコンビニによって「正常な部品」にしてもらった人物だった。
ところが長年働いた結果、今度は白羽を見て、
「この部品は正常に作動していない」
と判断する側へ回っている。
これは以前考えた「教育係」の問題ともつながる。
古倉には、「普通の人間とは何か」が分からない。
それなのに白羽へ仕事を教えることはできる。
一見すると矛盾している。
しかし、
人間としての普通
と
コンビニ店員としての正常
を分ければ理解できる。
前者について古倉は迷い続けている。
しかし後者については、18年間の経験を持つ熟練者である。
だから白羽を教育できる。
しかも「修復」という言葉まで使う。
古倉は単にコンビニへ適応したのではない。
コンビニの価値体系そのものを内面化し、それを他人を評価する尺度として使うところまで来ている。
ここは少し怖い。
「普通」をめぐる二人の位置
ここまで読むと、『コンビニ人間』は単純に、
「普通になれない女性がコンビニに居場所を見つける話」
とは言いにくくなってくる。
古倉は「普通」を欲している。
だから規則を取り込む。
白羽は、その規則そのものから距離を取る。
古倉から見れば白羽は故障している。
しかし白羽から見れば、コンビニの論理を完全に内面化している古倉のほうが異様に見えるかもしれない。
そうなると、
誰が正常で、誰が故障しているのか。
という判定そのものが揺らぎ始める。
「修復されますよ?」という少し奇妙で笑える一言が、実は作品の中心にある「普通とは何か」という問題へ戻っていく。
説明する文章と、意味を孕ませる文章
『コンビニ人間』をここまで読んできて、文章についての評価も少し変わってきた。
この作品には確かに語りすぎるところがある。
主題を説明する。
さらに別の比喩で反復する。
読者がすでに理解したところまで、もう一度言葉にする。
そのサービス精神が『コンビニ人間』の読みやすさを作っている一方、文学的な余白を狭めている箇所もあると思う。
しかし今回見てきた、
商品の入れ替わり
お中元のポスターを見る白羽
「修復されますよ?」という一語
などは違う。
作者が、
「これはこういう意味です」
と説明していない。
具体物や人物の視線、たった一つの動詞によって、読者の中で意味が広がっていく。
特に「修復」は印象的だった。
長々とコンビニの機械性を説明するより、
「注意されますよ」ではなく「修復されますよ」と書く。
それだけで、コンビニという巨大な機械と、その内部で部品として動く人間の姿が立ち上がる。
小説を書くうえで参考になるのは、こういうところなのだと思う。
主題を説明するのではなく、主題を含んだ言葉を人物に喋らせる。
たった一語で、その小説の世界観まで見せる。
『コンビニ人間』を読みながら、文章とは何を「書く」かだけではなく、どこまで書かずに一語へ圧縮できるのかということを改めて考えさせられた。