松永K三蔵『バリ山行』を読んでいます。
読み進めながら感じるのは、この作品には非常にうまい細部がある一方で、「そこまで説明しなくても読者には伝わるのではないか」と感じる箇所もあるということです。
今回は、文章を細部まで読むという観点から、その両方を考えてみたいと思います。
「温かくなった小銭」はなぜ印象に残るのか
作中、主人公の失態を上司がフォローする場面があります。(033頁)
そのあと上司は笑いながら主人公に缶コーヒーを買ってくるように言い、小銭を渡します。
ここで印象に残ったのが、
「温かくなった小銭」
という細部でした。
ただ「小銭を渡された」と書いても、出来事そのものは成立します。
しかし、「温かくなった」と書かれる。
おそらく上司のポケットなどに入っていたのでしょう。身体の近くにあった硬貨には、人肌の温度が移っています。
重要なのは、作者がここで「上司の優しさを感じた」などとは書いていないことです。
上司は部下の失態をフォローしている。
その上司から渡された硬貨が温かい。
それだけです。
しかし読者は、物理的な硬貨の温度に、上司の人間的な温かさまで重ねて読むことができます。
心理を説明するのではなく、物に語らせる。
私は、こういう文章をうまいと思います。
一方で、意味を説明しすぎるところもある
ところが別の場面では、かなり説明的になります。
主人公が山を歩いていると、山陰の木立が暗く、寂しげに感じられます。そして、それが現在の自分の気分に合っていると感じる。(058頁)
ここまでは理解できます。
問題は、そのあとです。
語り手は「何が変わったのか」と問い、山そのものは変わっていない、変わったのは自分自身と自分を取り巻く状況なのだ、と意味を言葉にします。
しかし、これはすでに直前の描写から読み取れるのではないでしょうか。
同じ山なのに、以前とは違って見える。
木立の暗さが、現在の自分の気分に妙に馴染む。
ここまで書かれていれば、
「変わったのは山ではなく主人公なのだ」
というところまで、読者自身がたどり着くことができます。
そこで答えまで書いてしまうと、読者が意味を発見する余地が小さくなります。
「暗い」「寂しげ」も少し直截的ではないか
さらに私は、その前の風景描写そのものにも少し引っかかりました。
木立を、
「暗い」
「寂しげ」
と形容しています。
もちろん意味はよく分かります。
しかし「寂しげ」という言葉は、すでに風景に対する解釈です。
ここで木立に差し込む光や、木々の密度、足元、音、湿度などをもう少し具体的に描いたらどうでしょう。
読者自身が、その風景から「寂しい」と感じるかもしれません。
つまり、
「寂しい風景です」と意味を提示する
のではなく、
「こういう風景です」と知覚を提示し、寂しさは読者に感じてもらう。
その違いです。
「心理描写をしています」という形が文章の表面に出てしまうより、風景そのものを深く描くことで主人公の心理を滲ませたほうが、私は好きです。
「バリエーション」の意味まで人物に説明させる
似たことは、作品の中心題材であるバリエーションルートについても感じました。(037頁)
作中では、そもそも山には道などなく、昔の人は自分でルートを探して歩いていたこと、整備された登山道を歩く現在の登山者に対して、バリエーションルートのほうが本来の登山に近いのかもしれない、といった趣旨が人物の口からかなり詳しく語られます。
これは作品の主題と強く関係しています。
会社では、人は組織の決めたルートを歩いている。
山にも整備された登山道がある。
そこから外れて自分でルートを探すのが「バリエーション」です。
この対応は、それまでの会社と山の描写から十分に読み取ることができます。
だからこそ、人物自身にバリエーションの思想を長く説明させると、私は少し「作者の顔」が見えるように感じました。
人物が会話しているというより、作品が自分自身の主題を解説しているように見えてしまうのです。
会社パートは「必要」だが、それ自体が面白いか
『バリ山行』では、会社の経営状況もかなり細かく書かれます。
経営が悪化し、事業が再編され、人員配置が変化していく。
これは作品の構造上、必要な情報でしょう。
会社にもリスクがある。
仕事を失うかもしれない。部署や立場が変わるかもしれない。生活が揺らぐかもしれない。
しかし山へ入ると、まったく違う種類のリスクが現れる。
転落すれば怪我をする。
道を失えば遭難する。
場合によっては死ぬ。
会社の「リスク」と山の「リスク」を並べることで、会社という世界で重大に思われていたものが、別の尺度から見直されます。
その構造はよく分かります。
ただし、
作品の構造上必要であることと、その部分自体が小説として面白いことは別です。
会社の経営事情を読んでいると、私はときどき企業小説を読んでいるというより、「このあと物語をこう動かすために会社はこういう状況です」と筋書きを説明されているように感じました。
会社と山の対置は機能している。
しかし会社パート単独でも読者を引っ張れるほど、人物の利害や葛藤から企業ドラマが立ち上がっているか。
そこは別に検討していいと思います。
人物の言葉遣いにも、小さな違和感がある
細部を読んでいると、人物造形について考えさせられる箇所もあります。
たとえば、社内では怒りっぽい人物として知られている人物が、ある場面では「怒られちゃったけどね」(027頁)と小さく笑います。
これはキャラクターのブレとも取れます。
しかし一方で、
「社内で評判になっている人物像」と「主人公が直接接して知る人物」とは違う
という造形なのかもしれません。
そう考えると、むしろ人物を単純化しないための表現とも読めます。
だから私は、こういう箇所ではすぐに「矛盾」と判定せず、その後の描写を待ちます。
一つの違和感を覚えることと、それをただちに欠点と判定することは違います。
一語で人物の見え方が変わる
また、山に詳しい人物が藪道をたどり、再び登山道へ出る場面では、「抜けた」ではなく「抜けてみせた」(027頁)という表現が使われています。
この「みせた」は面白い。
単に「抜けた」なら出来事の報告です。
ところが「抜けてみせた」になると、誰かの前で能力を発揮したようなニュアンスが生まれます。
必ずしも本人がひけらかしているとは限りません。
むしろ初心者である主人公の目に、
「自分にはできないことを鮮やかにやってみせた」
と映っている可能性があります。
一つの補助動詞によって、出来事の記述が人物関係の描写へ変わる。
こういう細部も、小説を読む面白さだと思います。
私が講評で見ようとしているもの
私は作品を読むとき、「この作品のテーマは何か」だけを探しているわけではありません。
なぜ、ここでこの動詞なのか。
なぜ、この形容詞なのか。
なぜ、ここでは心理を説明したのに、別の場面では物に語らせたのか。
なぜ、この一文では読者に任せず、意味まで説明したのか。
そういう小さな違いを拾います。
『バリ山行』を読んでいて興味深いのも、まさにそこでした。
「温かくなった小銭」のように、ほとんど説明せずに人間の温度を感じさせる文章がある。
その一方で、風景から十分読み取れる心理を言葉で回収したり、作品の中心的な思想を人物自身に説明させたりするところもある。
私は、この差を面白いと思います。
小説を読むというのは、作品を「良い」「悪い」の二択で判定することではありません。
うまくいっている一文と、引っかかる一文の両方を拾い、その違いがどこから生まれているのかを考える。
そこまで細かく読むことで、自分自身が小説を書くときにも、「ここは説明するべきなのか、それとも読者に預けるべきなのか」という問題が、少しずつ見えるようになるのだと思います。
こうした「なぜこの一語だけで伝わるのか」「なぜここは説明せず読者に預けたほうがいいのか」という検証を、自作に対しても行っています。ご自身の原稿でも、同じ視点で読んでほしい方は、下記のサービスからどうぞ。