小説を読んでいると、「この文章はこの作家のものだ」と感じることがあります。(駒田隼也『鳥の夢の場合』)
派手な事件が起きているわけではありません。むしろ、そこで描かれている事実だけを抜き出してみると、驚くほどありふれていることがあります。
今回読んだ作品にも、こんな場面がありました。
大学時代、仲間たちと火を囲む。もうすぐ卒業するので、それぞれが将来について話す。夜が深まり、星空を見る。自分たちが大きな世界の中の小さな存在であることを感じる。別の場面では鹿と出会う。
出来事だけなら、決して珍しいものではありません。
それでも私は、ここにははっきりと「この人の文体」があると感じました。
地の文と内語の境界が消えていく
まず特徴的だったのが、地の文と人物の内語との距離です。
ある場面では、家までの距離について比較的標準的な地の文で説明していた文章が、最後には、
「気分的につかれるねんな」(008頁)
という関西語へ自然に移っていきます。
「〜と思った」といった標識はありません。
地の文だったはずのものが、いつの間にか人物自身の声になっている。
別の場面では、学校の試験を思い出したことをきっかけに、
ふと自分が今制服を着ているような気がして、
実際に服の生地を確かめます。(007頁)
もちろん制服など着ていません。
そこで人物自身の内語による、少し突き放したような言葉が続く。
ここでも現在と過去、地の文と内語との間に明確な境界線がありません。
意識が滑るように別の時間へ移動していきます。
「思い出した」と書く必要はあるのか
だからこそ、逆に気になった表現もありました。
現在の人物の目から、大学時代に出会った鹿を回想する場面です。
そこでは、現在の人物の目が「いっぴきの鹿を思い出させた」(009頁)という趣旨の文章が置かれていました。
もちろん意味は明快です。
しかし、ここまでの文体を考えると、本当に「思い出させた」と説明する必要があるのでしょうか。
現在の目。
大学時代のキャンプ場。
早朝。
水を飲みに降りてきた鹿。
これだけでも、読者は現在から記憶へ移ったことを理解できるかもしれません。
むしろ「思い出した」という標識を外したほうが、この作品がそれまで見せてきた、現在・記憶・夢・内語の間を意識が浮遊していく感覚には合っているようにも思いました。
これは正解・不正解という話ではありません。
作品の中に文体上の規則が見えてくると、一つ一つの言葉について、
「これはこの作品の文体に必要なのか」
と考えられるようになる、ということです。
読みにくい。でも、簡単にしてはいけない文章
一方、火を囲んで卒業について語る場面では、私はかなり読みにくさを感じました。
最初に「卒業」という分かりやすい話題が提示されます。
ところが、それはすぐに「通りいっぺんの話題」として退けられる。
では何について話しているのか。
読み進めると、それぞれの「予感」や「兆し」を渡し合っている、という抽象的な表現へ移っていきます。
そして、それらが積み重なり、最後には全員が何か大きなものを共有しているような感覚へ到達します。
話題の中心がどこにあるのか、非常につかみにくい。
決して読みやすい文章ではありません。
ところが、これを、
「卒業を前に、みんなで将来について語り合った。不安や期待を共有し、一体感を覚えた」
と書き直したらどうでしょう。
意味は一瞬で分かります。
しかし、作品が表現しようとしていたものの大部分が消えてしまいます。
彼ら自身にも、これから何が起こるのか分からない。
ただ、自分たちが何かの境界に立っていることだけは感じている。
その名づけられない状態そのものを文章にしようとした結果として、ある程度の読みにくさが生まれているとも考えられます。
だから私は、
読みにくい文章=直すべき文章
とは単純に考えません。
まず、
なぜ作者は、ここを読みにくく書いたのか。
そこまで考えてから評価する必要があると思います。
ありふれた星空が「文学」になる
その後の文章は、私には特に印象的でした。
火の粉が爆ぜる。
煙が暗がりへ消えていく。
星が見える。
素材としては、ごく普通です。
「星空を見て、自分は宇宙の中では小さな存在なのだと感じた」
と要約してしまえば、むしろ凡庸です。
ところが、この作品では星を見ることによって、人々が「自分自身からとおざけた」(010頁)という方向へ表現が動いていきます。
さらに星の側から自分を見るように視点を移し、大きな時間の中のごく短い一瞬として自分自身を捉え直していく。
ここが私はとても面白いと思いました。
「人間は小さい」という結論を書いているのではありません。
星を見る。
視点が移動する。
自分と自分との距離が変わる。
そして自分という存在の感じ方まで変わっていく。
その意識の運動そのものを言葉にしているのです。
凡庸な出来事から文体は生まれる
今回読んだ範囲だけでも、
地の文が人物の内語へ滑り込む。
標準語から関西語へ境界なく移る。
現在から過去の記憶へ移動する。
具体的な風景から抽象的な思考へ飛ぶ。
しかし、その抽象性を再び火の粉、煙、星、鹿といった具体物によって支える。
こうした特徴が何度も現れます。
私はここまで反復されると、個々の「上手い表現」というより、すでにこの作者固有の文体が成立していると感じます。
「二度と」が生む、時間的な俯瞰
もう一つ特徴的だったのが、
きょうもらってきた引っ越し先候補の資料を適当なひきだしにしまって、二度と取り出すことはなかった。(同書017頁)
という一文です。
「二度と取り出すことはなかった」は、その瞬間の人物にはまだ知りえない未来です。そのため、人物の現在に密着していた語りが、ここだけ一瞬、未来まで見渡す時間的な俯瞰を獲得しています。
これを単純に「神視点」と呼ぶより、現在・記憶・内語を自在に行き来してきたこの作品が、さらに未来まで語りの射程に入れていると捉えるほうが面白いでしょう。
この作品では、視点だけでなく「時間」についても、語りの境界がかなり柔らかいのだと感じました。
シームレスであることの代償
一方、この文体の特徴が読みにくさにつながっている場面もありました。
「そのまま寝た」(018頁)に続いて突然「スペインのある町では」(同)と別の場面が描かれ、その後に人物がソファーで目を覚まします。(019頁)
夢なのか、記憶なのか、現実の別場面なのか、あるいは象徴的な挿話なのか。
作品がそれまで現実・記憶・内語の境界を曖昧にしてきただけに、判断するための標識がありません。
境界を消すことは、この作品独特の意識の流動性を生みます。
しかし、「何なのか分からないままでも、その移動を追える」ための細い接続まで消してしまうと、文体上の長所がそのまま読解上の負荷にもなります。
文体とは、特徴が強ければ強いほど、その特徴固有の弱点も生むものなのかもしれません。
ある選考者がこの書き手について、山下澄人に近いものを感じるという趣旨の評価をしていました。
もちろん、それだけで両者を同じ文体だと考えることはできません。
ただ、少なくとも今回読んだ文章には、出来事を整然と説明していくというより、人物の意識が動く速度や方向に文章そのものを付き合わせようとする性質があります。
そして、ここから小説を書くうえで大きなことを学べると思いました。
焚き火を囲んだ。
卒業について話した。
星を見た。
鹿と出会った。
事実だけなら、どれも珍しくありません。
それでも文学になる。
おそらく重要なのは、珍しい出来事を探し続けることではないのでしょう。
その出来事を自分はどう見たのか。
その瞬間、意識はどこからどこへ動いたのか。
そして、その動きにまだ名前がないのなら、どんな言葉を与えるのか。
そこに「この人にしか書けない文章」が生まれる。
今回の文章を読んで、私はそんなことを考えました。
自分の原稿の「読みにくさ」が、削るべき粗さなのか、それとも作品が本当に伝えたいものの一部なのか。書いている本人には判断がつきにくいところです。一人の読者として、実際に読んでその境界を確認します。