小説を読んでいると、「間違っているとは言えない。でも、なぜかここで引っかかる」という文章に出会うことがあります。
誤字でもなければ、文法的な破綻でもない。
では、その違和感はどこから来るのでしょうか。
最近、小説(『サンショウウオの四十九日』)を読みながら、そうした小さな引っかかりをできるだけ言葉にしてみています。
今回は、「時間」「認識」「比喩が作る運動」という三つの観点から考えてみます。
「とっくの昔」と「潰れてしまっている」
たとえば、こんな文章です。
「部活帰りに立ち寄ったカレー屋は、とっくの昔に潰れてしまっている」(4‐5頁)
一見すると、ごく普通の文章です。
実際、日本語として成立しています。
しかし、私は「とっくの昔に」と「潰れてしまっている」の組み合わせに少し引っかかりました。
「とっくの昔」は、読者の意識を現在から遠い過去へ向かわせます。
一方、「潰れてしまっている」の「ている」は、過去に店が潰れ、その結果として現在も店が存在しないという状態を表すことができます。
つまり、
現在 → 遠い過去 → 現在に残る結果
という時間の往復が、一文の中に生じています。
これは文法的な矛盾ではありません。
ただ、
「とっくの昔に潰れた」
とした場合と比べると違いが分かります。
こちらは時間の方向が比較的単純です。
一方、「とっくの昔に潰れてしまっている」では、過去へ大きく視線を動かしたあと、その出来事をもう一度現在から眺め直しています。
問題は、この時間的な往復が作品に必要なのかどうかです。
文章には、意味だけではなく時間の方向もあるのだと思います。
心情を描いていた時間が「から」で切られる
次の文章です。
「無くなった店の写真を観ているうちに、瞬はひどく懐かしく感じて、胸に沁みてくる心地のままに、/ 『あぁ、懐かしい』/実際に声に出してからラックに戻し、かわりに私は隣の振袖のカタログを手に取る」(5頁)
前半では、「懐かしく感じる」「胸に沁みてくる」と、かなり連続的な心情が描かれています。
感情には明確な境界がありません。
「ここから懐かしさが始まり、ここで終了した」と時計で測れるようなものではないでしょう。
ところが、
「実際に声を出してから」
と書いた瞬間、時間が切り分けられます。
声を出す。
それが終わる。
ラックに戻す。
別のカタログを取る。
「〜てから」は、出来事の前後関係をかなり明確にする表現です。
それまで流れていた曖昧な心理的時間が、突然、順番に整理された行動の時間へ変わります。
さらに、
「『あぁ、懐かしい』」
と直接話法ですでに提示した直後に、
「実際に声を出して」
と説明する必要があるのかも考えられます。
読者がすでに経験した発話を、語り手がもう一度説明しているからです。
ここで私が感じた違和感は、単なる助詞の問題ではありません。
心理的に連続していた時間を、「から」が前後に切断してしまう。
助詞一つにも、時間を作る力があります。
「思い出される」から「間違いない」へ
次は、
「なぜかピンク色と黄色の付箋を貼ることに執心していたことが思い出されて、どちらかが貼ったものには間違いなかった」(5頁)
という文章。
「思い出される」の「れる」は、ここでは自発として読むことができます。
つまり、
自分から積極的に思い出す
というより、
記憶が自然と意識に浮かんでくる
ということです。
ところが、その直後には、
「どちらかが貼ったものには間違いなかった」
という判断が置かれています。
構造としては、
記憶が自然に浮かぶ
↓
その記憶を根拠にする
↓
現在の対象について判断する
となります。
文法的には成立します。
しかし、「思い出される」では認識主体が後景化するのに対して、「間違いなかった」では主体による判断が前面に出てきます。
つまり、一文の中で、
自発 → 判断
へと認識のモードが切り替わっています。
もし、
執心していたことを思い出し、どちらかが貼ったものに間違いないと思った。
とすれば、
思い出す → 照合する → 判断する
という一つの主体の認識過程として流れやすくなります。
もちろん、不意に記憶が蘇ったことを表現したいなら、「思い出された」を残す意味があります。
その場合は、
「執心していたことが、ふと思い出された。ならば、どちらかが貼ったものに間違いない」
などと文を分ければ、「記憶の自発的な浮上」と「現在の判断」の違いそのものを表現することもできます。
大切なのは「自発表現を使ってはいけない」ということではありません。
その前後で、認識している主体がどのように動いているのか。
そこを見ることです。
「手」が脳裏を駆け巡る?
最後は、
「瞬がそう言ってから黙ると、私の脳裏にもカタログを前に付箋を貼っている二人の若い手が駆け巡ってくる」(5頁)
という文章です。
この作品では、「私」と瞬の特殊な身体的関係が設定されています。
そのため、
私の脳裏にも
という「も」には、二人の共有された過去や記憶を感じさせる働きがあります。
私が気になったのは、その後です。
「 二人の若い手が駆け巡ってくる」
「脳裏を駆け巡る」という表現自体は珍しくありません。
「さまざまな思いが脳裏を駆け巡る」
「昔の記憶が脳裏を駆け巡る」
などと言います。
ところが、ここで駆け巡っているのは「思い」でも「記憶」でもありません。
二人の若い手です。
比喩をいったん文字どおり映像化すると、二人の手そのものが脳裏を走り回っているような奇妙な像が立ち上がります。
しかも「付箋を貼っている手」は、かなり具体的で静的な視覚像です。
それに対して「駆け巡る」は、高速で広範囲な運動を感じさせます。
ここには、
付箋を貼る若い手――静的・具体的
駆け巡る――動的・高速
という運動強度の差があります。
ただ、「二人の若い手」という表現そのものは面白いと思います。
顔でも全身でもなく、昔の二人の「手」が蘇る。
身体そのものが重要な作品なら、むしろ残す価値があるでしょう。
ならば、
「二人の若い手が脳裏に浮かんだ」
あるいは、
「二人の若い手が鮮やかに蘇った」
とすれば、視覚像と動詞の運動強度は揃いやすくなります。
「間違い」ではない違和感を読む
今回取り上げた文章の多くは、明確な誤文ではありません。
だからこそ面白いのだと思います。
「とっくの昔」と「潰れてしまっている」には、時間の方向がある。
「〜てから」には、連続した時間を切り分ける力がある。
「思い出される」には、主体を後景化する自発性がある。
「駆け巡る」には、強い運動性がある。
言葉は辞書的な意味だけでできているわけではありません。
速度、方向、強度、時間、身体感覚、認識主体のあり方。
そうしたものまで背負って文章の中に置かれています。
だから、「意味は分かるのに、なぜか引っかかる」という感覚を、すぐに捨てなくてもいい。
その違和感は文章の欠点とは限りません。
作者が意図的に作った摩擦かもしれない。
あるいは、複数の言葉が別々の方向へ読者を引っ張っているのかもしれない。
なぜ私は、この一文で立ち止まったのだろう。
そう考えて言葉を一つずつほどいていくことも、小説を読む楽しさの一つなのだと思います。