綾木朱美『アザミ』を読んでいる。
第68回群像新人文学賞を受賞した作品である。
読み進めながらまず感じたのは、この作者は、人間の感情や表情を「ある/ない」の二択では捉えない人なのだ、ということだった。
集中しているか、していないか。
笑っているか、無表情なのか。
相手と意思疎通できているか、できていないか。
普通なら二つに分けてしまいそうなところを、その中間にある微妙な状態として捉えようとする。
そこにこの作品の魅力がある一方、表現が技巧に傾きすぎているのではないか、と感じるところもあった。
「微笑み」と「無表情」のあいだを見る
この作品では「無表情」が何度も細分化される。
「微笑み寸前」の無表情があり、「微笑みの残滓」がない無表情があり、さらには「繕い慣れた」無表情まである。
これは面白い。
私たちは普段、
「笑っている」
「無表情である」
と人間の顔を分類する。
しかし実際の表情はそんなにデジタルなものではない。
無表情から微笑みへ移行する途中もあれば、微笑みが消えた直後の顔もある。
『アザミ』は、そのグラデーションを執拗なほど見つめている。
「会釈」についても同じだ。
主人公は相手の動作をいったん会釈と認識しながら、肩を上げ、首を縮ませたその動きを見て、「会釈ではなかったのかもしれない」と考える。
ここには、
知覚する→意味づける→自分の意味づけを疑う
という動きがある。
人間の動作そのものと、それを見た人間が与える意味とは同じではない。
この作品には、そのわずかな隙間を見ようとする視線がある。
しかし、細かく見すぎることで文章が重くなる
一方で、その特徴が過剰に現れているように感じる文章も少なくなかった。
たとえば、主人公が普通に振り向く動作にも「首を巡らす」といった表現が使われる。
スマートフォンを見て眠気が覚めていくことについても、眠気を「網」として捉え、その網が液晶画面から放たれる光によって「じりじり燃えていく」というところまで比喩が展開される。
パスタを食べる場面でも、「柔らかすぎるパスタ」を「雑に噛みちぎり、飲み下す」と書く。
一つ一つを取り出せば成立する。
しかし、これだけ頻繁に日常的な動作を特殊な言葉へ置き換えていくと、次第に私は登場人物よりも、
「作者はここをどう表現するのだろう」
ということのほうを意識するようになった。
文章技巧が透明でなくなり、作者の存在が前景化してくるのである。
特に気になったのが、
ほとんど暴力のように私を殴る
という趣旨の表現だった。
「殴る」こと自体が典型的な暴力である。
そのため「暴力のように」と喩えたあとで「殴る」と続けると、比喩によって新しい像が立ち上がるというより、「暴力」という意味を重ねて強調しているように感じられた。
比喩は、奇抜であればよいわけではない。
異なる二つのものを結びつけたとき、それまで見えていなかった対象の性質が立ち上がる。
そこに比喩の面白さがあるのではないだろうか。
主人公は他人の表情を「読みすぎる」
さらに読み進めるうち、この技巧的な文章には、主人公の人物造形とつながっている部分もあるのではないかと思い始めた。
主人公は校閲を仕事としている。
文章を読み、そこに間違いがないかを確かめる人である。
ところが彼女は、人間についても同じことをしているように見える。
相手が会釈した。
いや、会釈ではないかもしれない。
相手が笑っている。
しかしそれは職業的な笑みかもしれない。
無表情である。
しかし完全な無表情ではなく、微笑みに移行する直前なのかもしれない。
つまり彼女は、他人の表面に現れたものをそのまま受け取らない。
人間そのものを「読む」のである。
この意味では、技巧的に見える文章の一部は単なる作者の装飾癖ではなく、主人公の認知のあり方とつながっている可能性がある。
校閲者という職業設定は、思った以上に作品の深いところまで入り込んでいる。
「好き/嫌い」さえ0か1ではない
このグラデーションは、作品の中心にいるミカエル楓への感情にもつながっていく。
主人公は彼についての記事を読み、コメント欄を読み、嫌悪し、怒る。
しかし、嫌いなら見なければいい。
それなのに見てしまう。
気になってしまう。
つまり、
嫌悪しているから見るのか。
それとも、
見ることをやめられないほど惹きつけられているから嫌悪するのか。
その境界が次第に怪しくなる。
ここに『アザミ』の面白さがあると思う。
人間の感情を、
「好き」
「嫌い」
という二つの箱に入れるのではなく、その間を絶えず揺れ動くものとして描いている。
身体は、本人にも説明できない
その意味で私がもっと追ってみたいと思ったのが、作品に繰り返し登場する身体的な描写である。
主人公は非常に分析的な人物である。
ニュースを読む。
コメントを読む。
他人の表情を読む。
自分の感情さえ分析しようとする。
しかし身体は、必ずしもそんなに簡単には分析できない。
たとえば、めまいを感じたとしても、それが酒によるものなのか、生理に伴う身体変化によるものなのか、本人にも判然としない。
ここには面白い構造があるように思う。
身体に生じた感覚の原因が分からない。
そして、
ミカエル楓に向けている感情の原因も、本当はよく分からない。
この二つが重なれば、かなり強い小説的構造になりうる。
「私はこういう理由で怒っている」と説明できるほど、人間は自分自身について透明なのだろうか。
むしろ自分の身体さえ完全には説明できない人間が、自分の感情についてだけ明快な答えを持っているほうが不思議なのかもしれない。
だからこそ、作品自身が答えを言うと惜しい
その一方で、『アザミ』には、主人公自身がかなり明確に自分の心理を説明してしまうところがある。
特に印象に残ったのが、
怒りに支配されることが、不安に支配されることよりもずっとお手軽だからだ。
という趣旨の自己分析である。
なるほど、と思う。
巨大で処理しにくい不安より、具体的な誰かに怒りを向けるほうが容易である。
社会心理についても語れそうな考え方である。
しかし私は、ここまで言ってしまわないほうが面白かったのではないかと思った。
なぜなら、それまでの主人公の行動そのものが、
「なぜ、この人は嫌いな人間を見続けるのだろう」
という問いをすでに作り出していたからである。
そこで主人公自身が答えを言ってしまえば、読者が考える余地が狭くなる。
この作品は表情については、
「会釈なのか、会釈ではないのか」
「微笑みなのか、無表情なのか」
という曖昧さを大切にしている。
それならば主人公自身の感情についても、
「怒りなのか、不安なのか。それとも、そのどちらでも説明しきれない何かなのか」
という状態を、もう少し長く保存してもよかったのではないか。
『アザミ』の面白さは「境界を見る」ことにある
『アザミ』を読んでいて、私は何度も文章表現に引っかかった。
技巧的すぎる。
少しくどい。
そこまで比喩を重ねる必要があるのだろうか。
人物の内面を読み込みすぎてはいないだろうか。
そう感じる文章もある。
しかし同時に、それらを単純な欠点として処理することもできない。
なぜなら、その過剰さの根には、
「人間の状態は、本当にそんなに簡単に名前を付けられるものなのか」
という、この作者特有の感覚があるように思えるからだ。
無表情と微笑みの間。
会釈と会釈ではない動作の間。
集中と散漫の間。
嫌悪と執着の間。
そして、自分で説明できる感情と、説明できない身体の間。
作者は、その境界線上にあるものを言葉にしようとする。
だからこそ私は、表現が成功しているところと、技巧が先走っているところの両方を感じた。
そしてもう一つ。
この作品を読んで改めて思ったのは、文学賞を受賞する作品とは、一文一文に傷のない作品とは限らないということである。
表現に疑問を感じる箇所があっても、それとは別の次元で、その作品にしかない人間の捉え方が存在する。
文章の瑕疵を探すだけでは、その作品の価値を見失う。
逆に「受賞作だから」とすべての文章をありがたがる必要もない。
引っかかったところでは立ち止まり、それでもなお、
「この作者にしか見えていないものは何だろう」
と考える。
『アザミ』は、そんな読み方をしたくなる作品だった。