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すべてのブログから「#小説を書く人と繋がりたい」タグの検索結果

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私は、小説を「正しい読み」に直したくない――講評するときに大切にしていること

小説の講評をするとき、私ができるだけ避けたいことがあります。それは、「この人物の心理はおかしい」「普通ならこんな行動はしない」「ここでは、こう書いたほうがいい」と、作品を一つの読み方へ導いてしまうことです。もちろん、講評には「こう感じた」という読後感もあります。しかし私は、それだけで作品を書き換える根拠にはならないと考えています。「私はこう読んだ」と「だから直すべき」は違う。たとえば、小説の中で父親が突然、息子に激しい言葉をぶつけたとします。そこで、「この父親がこんなことを言うのは不自然です」と指摘することは簡単です。けれど、本当にそうでしょうか。人間はいつも一貫しているわけではありません。普段は温厚な人が突然怒ることもあれば、自分でも説明できない行動を取ることもある。そして何より、小説にはさまざまな人物が登場します。講評者自身の人間観に登場人物を合わせてしまったら、その人物が持っていた異物感や不気味さ、不可解さまで消してしまうかもしれません。だから私は、「私はこう読んだ」ということと、「だから、こう直すべきだ」ということを分けて考えます。この二つの間には、思っている以上に大きな距離があります。私が見るのは「何が書かれているか」。では、何を見るのか。まず大切にしているのは、できるだけテキストそのものを見ることです。たとえば、「ここで人物の気持ちが変化している。しかし、その変化につながる記述が前段には見当たらない」という指摘なら、比較的客観的に確認できます。あるいは、「この代名詞には二つの照応先が考えられる」「この比喩では、前半と後半でイメージの方向が変わっている」「この語を置く
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「ぞっとした」と書かなくても、読者はぞっとできる――小説講評で私が見ていること

小説を講評していると、「間違いではない。でも、少し引っかかる」という文章に出会います。今回、こんな趣旨の一節を読みました。主人公が帰ろうとして机の中を確認すると、友人から借りていた数学の教科書が出てくる。返す約束をしていたのに忘れていた。しかも友人はその日の授業で使うと言っていた――という場面です。冒頭は、次のような構造になっていました。『推し、燃ゆ』25頁。帰ろうとして、机の中から引っ張り出したのは数学の教科書だった。ぞっとした。意味は十分わかります。しかし私は、二か所で立ち止まりました。「引っ張り出す」は、この場面に合っているだろうかまず気になったのが「引っ張り出した」です。「引っ張り出す」には、対象に働きかけて外へ出すという、比較的強い能動性があります。たとえば、「押し入れから古いアルバムを引っ張り出す」なら自然です。アルバムという対象を認識したうえで、それを取り出しているからです。ところが今回の場面で重要なのは、主人公が数学の教科書を取り出そうとしたことではありません。むしろ逆です。帰ろうとする。机の中を見る。数学の教科書を偶然見つける。そこで「返すのを忘れていた」と気づく。つまり、この場面の核は〈取り出す〉ではなく〈発見する〉ことにあります。そこで、帰ろうとして、机の中を片づけていると、数学の教科書が出てきた。あるいは、もっと削って、帰ろうとして、机の中を見る。数学の教科書があった。くらいでも成立します。私は後者のような書き方も好きです。「数学の教科書があった」その瞬間、主人公の中で記憶が立ち上がる。確か、ゆうちゃん、五限に数学があると言っていた。ここまで書けば、読者
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