龍の声が聞こえなかった日
龍を観るとき、いつも言葉が届くわけではありません。姿が観えることはあっても、声として受け取れるものが何もない日があります。先日も、淡い雲の中に龍の輪郭は観えていました。顔の向きも、ゆっくりと動く身体も分かります。けれど、そこに言葉はありませんでした。「何か伝えているのではないか」と耳を澄ませても、聞こえないままです。その静けさを前にすると、つい意味を探したくなります。けれど、聞こえなかったものを、聞こえたことにはできません。声がないことを不足と決めない言葉を待っていると、何も聞こえない時間が長く感じられます。大切な答えを受け取り損ねたのではないか、自分の感覚が鈍っているのではないかと、不安になることもあります。ただ、声がないことと、龍がいないことは同じではありません。その日は姿が観えていました。それでも、声だけは聞こえませんでした。私はその二つを分けて受け取るようにしています。すべてが一度に明らかになるとは限りません。姿だけが観える日もあれば、気配だけが残る日もあります。何も観えない日もあります。どの状態が優れているということではなく、そのとき受け取れた範囲が違うだけなのだと思います。沈黙に言葉を足さない静かな龍を前にすると、「待ちなさい」「進みなさい」といった分かりやすい言葉を当てはめたくなることがあります。しかし、その言葉が本当に届いたのか、自分が望んで作ったのかは、丁寧に見分けなければなりません。その日の龍は、口を開くようには観えませんでした。強い光も、方向を示す動きもありません。ただ雲の中にいて、こちらの問いを聞いているようにも、遠くを見ているようにも感じられました。け
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