龍を観るとき、いつも言葉が届くわけではありません。
姿が観えることはあっても、声として受け取れるものが何もない日があります。先日も、淡い雲の中に龍の輪郭は観えていました。顔の向きも、ゆっくりと動く身体も分かります。けれど、そこに言葉はありませんでした。
「何か伝えているのではないか」と耳を澄ませても、聞こえないままです。その静けさを前にすると、つい意味を探したくなります。けれど、聞こえなかったものを、聞こえたことにはできません。
声がないことを不足と決めない
言葉を待っていると、何も聞こえない時間が長く感じられます。大切な答えを受け取り損ねたのではないか、自分の感覚が鈍っているのではないかと、不安になることもあります。
ただ、声がないことと、龍がいないことは同じではありません。その日は姿が観えていました。それでも、声だけは聞こえませんでした。私はその二つを分けて受け取るようにしています。
すべてが一度に明らかになるとは限りません。姿だけが観える日もあれば、気配だけが残る日もあります。何も観えない日もあります。どの状態が優れているということではなく、そのとき受け取れた範囲が違うだけなのだと思います。
沈黙に言葉を足さない
静かな龍を前にすると、「待ちなさい」「進みなさい」といった分かりやすい言葉を当てはめたくなることがあります。しかし、その言葉が本当に届いたのか、自分が望んで作ったのかは、丁寧に見分けなければなりません。
その日の龍は、口を開くようには観えませんでした。強い光も、方向を示す動きもありません。ただ雲の中にいて、こちらの問いを聞いているようにも、遠くを見ているようにも感じられました。けれど「そう感じた」ことと、「そう伝えられた」ことは別です。
沈黙を好きな物語で埋めると、一時的には安心できるかもしれません。けれど後から、その物語に自分自身が縛られてしまうことがあります。だから私は、分からない部分を残したままにすることを大切にしています。
聞こえなかったと伝える
鑑定の場では、何か特別な言葉を期待されていると感じることがあります。その気持ちは自然です。迷いの中にいるときほど、はっきりした答えが欲しくなるものです。
それでも、声が聞こえなかったときは、そのことを正直にお伝えします。聞こえない理由まで分かったように説明することもしません。「今は答える時期ではない」と断定することもできません。私に分かるのは、あくまでその時点で声として受け取れなかったということだけです。
正直な言葉は、ときに物足りなく感じられるかもしれません。けれど、観えなかったものを補ってしまうより、確かな境目を守るほうが大切だと考えています。
静かなまま終わる時間
その日、龍の姿は雲が薄くなるのと一緒に、少しずつ遠くなりました。最後まで声は聞こえませんでした。何かを伝え損ねた様子も、こちらを責めるような気配もありませんでした。
静かなまま終わる時間には、結論がありません。けれど結論がないからこそ、急いで動かず、自分の心の声を確かめられることがあります。龍の言葉を待つのではなく、今の自分が何を怖がり、何を大切にしたいのかを、静かに見直す時間です。
聞こえなかった日は、失敗の日ではありません。何もなかったと決める必要もありません。ただ「今日は声が聞こえなかった」と、そのまま置いておく。その余白を守ることも、龍と向き合う一つの在り方なのだと思います。