朝の気配の中で龍を観ていたとき、その背後に白い月が残っていました。空はすでに青みを帯び、夜は終わりかけています。それでも月は消えず、薄い輪郭のまま龍の肩越しに浮かんでいました。
龍は月を振り返っていませんでした。朝の光へ向かっているようにも観えましたが、どこへ進むのかまでは分かりません。私に観えたのは、夜の名残と朝の気配が、同じ空に静かにあったことでした。
朝になっても残るもの
朝が来れば、夜のことはすべて終わる。そう考えたくなる日があります。眠れば気持ちが切り替わり、昨日の迷いは薄くなっているはずだと、知らないうちに自分へ求めてしまいます。
けれど、心は空のように時刻だけで変わるものではありません。目が覚めても不安が残ることがあります。答えの出なかった考えや、うまく言葉にできなかった感情が、朝の支度のそばにいることもあります。
白い月は、夜が失敗した印ではありません。朝がまだ始まっていない証でもありません。ただ、夜から朝へ移る途中に見えるものです。その日の月も、何かを訴えているというより、そこに残っているように観えました。
消そうとしなくてよい時間
気持ちを切り替えようと強く思うほど、残っているものが気になることがあります。考えないようにする。明るく振る舞う。もう大丈夫だと言い聞かせる。そうした努力が必要な日もありますが、いつも急がなくてよいのだと思います。
残っている感情をすぐに意味へ変えず、「まだ少しある」と認めるだけでも構いません。寂しさがあるなら寂しさとして、迷いがあるなら迷いとして、しばらく名前を置いておく。そのことは、感情に支配されることとは違います。
龍観術でも、薄く観えたものを強い徴しとして語ることはしません。月が観えたからといって、過去との縁や未来の出来事を決めつけることはできません。観えた輪郭が淡いなら、淡いままお伝えします。
龍が振り返らなかったこと
龍は背後の月を確かめるような動きを見せませんでした。忘れているのか、気にしていないのかは分かりません。ただ、月を消そうとも、追い払おうともしていませんでした。
前を向くことは、後ろに何も残さないことではないのかもしれません。昨日の気持ちを抱えたままでも、朝の一歩は踏み出せます。完全に納得していなくても、顔を洗い、食事をとり、必要な場所へ向かうことはできます。
大きな決意でなくてもかまいません。窓を少し開ける、机の上を一か所だけ整える、今日することを一つだけ選ぶ。現実に触れる小さな動きが、残っている気持ちと朝の間に、無理のない距離を作ってくれます。
夜と朝の境目で
しばらくすると空は明るくなり、月の輪郭はさらに薄くなりました。龍の姿も光の中へ溶けるように観えなくなりました。月が完全に消えたところまでは観ていません。
この場面から、何かが必ず好転すると言うことはできません。ただ、二つの時間が重なる短い間にも、静かな居場所があるように感じました。夜を急いで閉じなくても、朝は少しずつ始まっていきます。
もし今日、昨日の気持ちが残っているなら、それを朝にふさわしくないものとして追い出さなくても大丈夫です。今ここにあることを認めながら、できることを一つだけしてみる。白い月を背にした龍のように、振り返って答えを急がず、明るくなり始めた空の中に立っていてもよいのだと思います。